皆さん、お元気ですか?
新型コロナの影響もまだまだ続いていますが、「Withコロナ」「Afterコロナ」に備えておかなといけないかもしれません。
価値観は大きく変わってきましたね。
GW(ゴールデンウイーク)はStay Homeの方々も多かったと思います。
そんな最中に、本日の取り上げる話題は起きました。
1970年5月4日、本日のテーマである、『ケント州立大学銃撃事件』は起こります。
私の記憶では、その頃の日本は、振替休日を定める「祝日法」の改正が行われる前であり、5月4日が平日であれば休日にはならず、学校にも通った記憶があります。
(1973年より、祝日法の改正が施行)
時はベトナム戦争真っ只中であり、当時立川に住んでいた私は、小学校&中学校の真上を飛ぶ米軍機の下で授業を受けておりました。
また、日米安保反対や大阪万国博覧会など、多感な時期にいろいろなことが起きた年でもありました。
反戦運動は全世界的な、いわゆる学生運動に発展しましたが、オハイオ州ケント市;ケント州立大学でもそれは同様でした。
当時のアメリカがどのような情勢だったのか、少し見てみましょう。
ケント州立大学銃撃事件の前年、1969年12月、「ソンミ村虐殺事件※1」が暴露報道され、ベトナム戦争反対の世論が高まります。
また、同年12月には、第二次大戦以来の「くじ引き徴兵制」の実施により、大学生の猶予期間が無くなるなど、変革が起きていました。
そのような情勢の中、「意義なき戦争」への反戦運動が、キャンパスに広がりました。
【※1】ソンミ村虐殺事件:1968年3月、ベトナムのソンミ村で、ウイリアム・カリー中尉率いるアメリカ軍兵士が、非武装の民間人を虐殺した事件。
ソンミ村のミライ集落は、人口507人中、生存者はわずか3人だった。
当初、「南ベトナム解放民族戦線のゲリラ部隊との戦い」との虚偽報告がされたが、1969年12月、フリーランスジャーナリストが、雑誌『ザ・ニューヨーカー』で真相を報じたことを端に、『ライフ』誌などでも報道され、事件が明るみになった。
1970年4月30日に、ニクソン大統領は「カンボジア侵攻作戦」を発令します。
翌日の5月1日から、キャンパス内で一連の抗議活動が始まり、因果関係ははっきりしていませんが、夜になって繁華街に暴動が起こりました。
この状況を鑑み、ケント市のレロイ・サトロム市長は緊急事態を宣言、オハイオ州のジェームズ・ローズ知事に応援を要請しました。
事件の2日前の5月2日に、サトロム市長は、オハイオ州兵の代表と会談し、州兵の派遣を決定、夜には部隊が同市に到着しました。
そのとき、すでに、大学構内のROTCビルが放火されていました。
そして事件が起きた5月4日、ケント州立大学には約2,000人が集結しました。
事件の真相は今でもはっきりせず、議論の的になっているようですが、解散するつもりのない学生たちに州兵は、M1ガーランド銃を向けます。
このとき、派遣された77人の州兵のうち、28人の州兵が約70発の実弾を発砲しました。
4人の学生が死亡し、9人が負傷します。
殺された学生4人のうちの2人、アリソン・クラウスとジェフリー・ミラーは抗議に参加していました。
しかし、残る2人、サンドラ・シャウアーとウィリアム・ノックス・シュローダーは、教室移動のために歩いていただけでした。
この事件は世界中に発信され、なかでも、米国のカンボジア侵攻およびベトナム戦争全般への反感を一段と増幅させました。
また、射殺されたジェフリー・ミラーの遺体の奥で、泣き叫ぶメアリー・アン・ベッキーノを収めたジョン・ファイロの写真は、ピューリッツァー賞を受賞し、この事件を最も象徴する写真になると共に、ベトナム戦争反対運動を象徴する写真の一つとなりました。
アメリカはこれ以降、まさに国論を二分する混乱に見舞われます。
現在のアメリカも「自国第一主義」の保守派と、「グローバル志向」のリベラルに国論は二分しています。
大統領選挙が行われる今年、
「世界第一の経済大国」がどのような結果になるかによって、日本は大きな影響を受けることになるでしょう。
過去の歴史を振り返れば、名もなき方々の犠牲の上に、今のさまざまな仕組みがあることも事実ですね。
歴史を知れば未来が見える、と私は確信しています。
何故か?
歴史は「人」が作っているからです。
本日はここまで。
ありがとうございました。