WBC、JAPAN優勝に思う。日系野球選手の歴史

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みなさん、今日は!
木下馨です。

 

だいぶ時間が空いてしまいました。
不定期ではありますがKinopediaを再スタートしていきたいと思います。
改めまして、どうぞよろしくお願いいたします!

 

2023年のWBCはJAPAN の優勝で幕を閉じましたが、この中でラーズ・ヌートバー選手(セントルイス・カージナルス)のJAPAN チームの参加が話題となりました。

 

彼自身はアメリカ国籍ですが、これは大会規定にある「親のどちらかが、その国の国籍を持っている」「親のどちらかが、その国で生まれている」の2つに該当しているため選出されました。

 

彼はまだ25歳、新たな「国際化」時代の到来を感じますが、実は、「日系野球選手」はプロ野球創成期から存在していました。
その歴史をふりかえってみましょう!

 

 

カイザー田中(田中義雄)

アメリカ;ハワイ出身の日系アメリカ人(後に日本国籍を取得)で、1937年に大阪タイガース(現在の阪神タイガース)に入団、捕手でした。

 

カイザー田中監督

 

後に、ヤクルトスワローズに入団する古田敦也選手が「眼鏡をかけた捕手」で有名でしたが、田中選手も「眼鏡をかけた捕手」です。
あの伝説の沢村英治投手に無類の強さを誇ったとされています。

 

戦後、1958年から1959年(昭和33〜34年)にかけて阪神タイガースの監督を務め、小山正明投手(通算320勝)、村山実投手(通算222勝)の二枚看板を育てました。
ちなみに、村山実投手は関西大学出身のいわゆる「大学出身」のプロ野球選手であり、かつ、200勝以上した初めての投手です。
彼以外の「大学出身」のプロ野球選手で200勝以上は、広島カープ、後にMBL(メジャーリーグ)で活躍した黒田博樹投手(専修大)がいるだけです(日本で124勝、メジャーで79勝)。

 

1960年代、阪神タイガースは2度リーグ優勝をしていますが、その基礎を作ったのも田中監督と言えるでしょう。
また、長島茂雄選手(巨人)が村山実投手からホームランを打った有名な「天覧試合」(天皇がスポーツ観戦をする試合。時に1959年6月25日)も田中監督でした。

 

エンディ宮本(宮本敏雄)

 ハワイ出身で、本名はアンドリュー・トシオ・ミヤモト。
ハワイ陸軍選抜チームの主力で活躍していた彼が読売ジャイアンツに入団したのは1955年でした。

 

エンディ宮本選手;キャッチは「ファイトを飲もう!」だったんですね。

 

2年目の1956年、1957年と2年連続の打点王に輝きます。
またこの年の三振王でもありましたが、打っても、三振しても爽やかな笑顔が特徴的であったそうです。

 

1961年の日本シリーズでは首位打者、そしてMVPにも輝いています。
また、我々の世代では王貞治さんがCMキャラクターであった「リポビタンD」の初代キャラクターはエンディ宮本選手です。

 

カールトン半田(半田春夫)

 彼もまた日系アメリカ人でハワイ出身です。
高校時代は投手で全米代表にも選ばれています。
ヒューストン大学を出てマイナーリーグに進みますが、1958年に南海ホークスに入団します。

 

カールトン半田選手:写真は東映フライヤーズコーチ時代

 

内野のユーティリティプレーヤーとして活躍、1960年と1961年の2年連続でオールスターゲームにも選出されます。
このオールスターでは板東英二投手(中日)から、オールスターゲーム史上初となるランニングホームランを記録しています。

 

その後、1962年に寺田陽介選手、長谷川繁雄選手とともに、中日ドラゴンズにトレードされます。
この年をもって引退するのですが、後の名二塁手、高木守道選手にバックトスを教えたのは半田選手と言われています。

 

*****

彼らは言葉の壁にも苦しみ、チームやファンに溶け込む労も惜しまなかったと言われています。
与那嶺選手の項でも書きましたが、太平洋戦争が終わってまだ20年ほどですから、「日系アメリカ人」としての偏見もあったことでしょう。

 

しかし、彼らはいつも嫌がらずファンにサインをしていました。

 

与那嶺選手のエピソードとしては、後楽園球場で次々にサインを断られ、泣きそうな顔をしていた小学生にサインをしたことがあったそうです。
それもゴムボールであったとか。

 

軟球や硬球はその少年には高価であったかもしれません。
その小学生の名は、王貞治少年。
有名なエピソードですね。

 

本日はここまで。
また、お会いしましょう!!

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