歴史

続:木下流プロ野球「助っ人列伝」!!

みなさん、こんにちは!
木下馨です。
今回は、前々回に続いて木下流「助っ人列伝」をお送りしたいと思います。

 

【前々回はこちらから。ぜひご覧ください!】
木下流プロ野球「助っ人列伝」!!

 

あくまでも個人的な見解でありますので、その「主観」的記述はご了承いただけましたら幸いです。
では、始めましょう!

 

ジョー・スタンカ(南海ホークス)

 

1960年から1965年まで南海ホークスで杉浦忠投手、皆川睦雄投手と並んで3本柱の1人でした。
私の少年時代、ジャイアンツファンの少年ばかりでしたので、皆、「スカタン、スカタン」と野次っていました。
身長196cmの大男で、なおかつ、AAAクラスの選手が日本のプロ野球に来たのは初めてのことでした。

 

ジョー・スタンカ投手

 

◆不可解な?判定で勝敗が逆転。
南海ベンチ総抗議、ファンも乱入の日本シリーズ

 

彼を全国区にしたのは1961年の日本シリーズでしょう。
この年、相手は宿敵ジャイアンツ。
(前年は杉浦忠投手の4連投4連勝で宿願の日本一に輝いています)

 

南海一勝二敗で迎えた第4戦、スタンカ投手はこの年15勝。
杉浦忠投手をリリーフして、9回もツーアウト。
最後のバッターになるはずの藤尾茂選手はファーストフライ、試合終了、となるはずが一塁手の寺田陽介選手がまさかの落球。
(この時以来、ポロリの寺田と野次られます)

 

続く長嶋茂雄選手はサードゴロ、今度こそ試合終了と思われたボテボテのゴロをサード小池兼司選手がファンブルとエラーが重なります。
次の打者、宮本敏雄(エンディ宮本)選手はシーズンでは不調でしたが、このシリーズは絶好調でしたが満塁からツーエンドワン(昔は最初がストライクでしたので、現代風に言えばワンツーです)の最後、自信をもって投げ込んだ球を主審の円成寺満はボールと判定しました。

 

【エンディ宮本選手についてはこちら】
WBC、JAPAN優勝に思う。日系野球選手の歴史

 

捕手の野村克也選手は
「文句なしのストライク!ゲームセットと思ってスタンカに駆け寄ろうと思ったがボールの判定」と述べています。
猛然とスタンカ投手は円成寺審判に詰め寄ります。
南海ベンチは全員グランドに出て、鶴岡一人監督も猛抗議。

 

しかし、判定は覆らず試合は再開ですが、興奮冷めやらぬスタンカ投手が投げ込んだ次の1球が外角高めに甘く入ると、宮本選手がライト線に運び、巨人が逆転サヨナラ勝ち。
話はこれで終わったわけではありませんでした。

 

外野からの返球を待つ野村克也捕手のバックアップで走ったスタンカ投手は、おそらくはわざとなのでしょう、円城寺球審と衝突し、突き飛ばしました。

 

スタンカ投手が円城寺審判に衝突した瞬間

 

また、ゲームセットの後、南海ナインが円城寺球審を取り囲み、乱入した南海ファンとともに小突き、押し倒す「白昼の暴力劇」となりました。

 

しかしながら、この試合での暴力沙汰で出場停止の選手は出ず、スタンカ投手は続く第5戦で先発、完投を成し遂げています。
まあ、今では考えられませんが、何事も寛容だったのでしょうか。

 

当時、大洋ホエールズ(現、横浜ベイスターズ)の三原脩監督は「巨人戦では10人対9人」、つまり主審は「ジャンパイア:ジャイアンツに有利な判断をする」と言われた時代でした。
もちろん、真相はわかりませんが。
ビデオ判定やリクエストも無い時代。
いろんなことが起きましたね。

 

このシーンから野球ファンが詠んだと言われる

「円城寺 あれがボールか 秋の空」

という句も話題になりました。

 

 

またしても主審の不可解な判定で球場が一触即発の状態。
機動隊&地元警察官100人を球場に動員。

 

余談ですが、円城寺審判はよほど「トラブルの運」に好かれたのか、この年から6年後、1967年9月2日、中日球場における中日対巨人戦でも球場全体を不穏の嵐に巻き込みます。
親会社同士が新聞社、ということもあって特に中日は「他チームには負けても読売だけには負けるな」という異常なまでの意識がありました。
(私にもそんな時代が。今でもあまり変わりませんが)

 

試合は3対1で巨人がリード。
7回表の巨人の攻撃では、1塁に金田正一投手を置いて、柴田勲外野手がレフト線に長打を飛ばしました。
柴田選手は金田投手が自重して二塁にいるのを見て、慌てて一塁に駆け戻りました。
この間、レフトの葛城隆雄外野手、伊藤竜彦内野手と中継された球はファーストの江藤慎一選手のミットに収まります。
そして柴田選手の右足にタッチ。

 

その時、塁審であった円城寺満審判はアウトを宣告します。
しかし、これに怒った柴田選手が円城寺審判を突き飛ばしました。
現在ならば、この段階で即退場でしょう。
問題はこの後も続きます。

 

アウトの宣告に納得しない、巨人の荒川博コーチ、牧野茂コーチも円城寺審判に詰め寄り、手にかけます(今でしたらこの二人も即退場でしょうが)。
そして前代未聞のことが起きます。
暴力に屈するかのように、アウトをセーフに切り替えたのです。

 

今度は中日の怒りが収まりません。
西沢道夫監督は円城寺審判を突き、コーチ、選手が執拗に抗議しましたが、今度はセーフ判定が覆ることはありませんでした。
「放棄試合」一歩手前の騒然とした雰囲気で、西沢監督も選手も帰宅しようと本気で思ったそうです。
ファンも納得できません。
球場には機動隊、地元警察官100人以上が動員されました。
当時のセリーグ会長からの要請もあり、なんとか試合を続行したのは1時間ほど経ってからでした。

 

ファンも大荒れ;壊された中日球場フェンス。警官隊も出動

 

円城寺審判は翌日、進退伺を提出。
この年限りで引退となりました。

中日対巨人;円城寺審判問題のシーンを伝えるスポーツ紙

 

 

ルー・ジャクソン(サンケイアトムズ)

 

ジャクソン選手は、メジャーリーグを経て1966年にサンケイアトムズに入団(現ヤクルトスワローズ)します。
球団は、少年ファンを獲得するためと言う理由と、漫画家:手塚治虫氏が後援会副会長という関係もあり、この年から「鉄腕アトム」をペットマークにし、使用を決めました。

ルー・ジャクソン選手

 

当時のサンケイ球団は弱小球団でありました。
(今とは違いますね)
前年の1965年、44勝91敗5分。
首位巨人との差は45.5ゲームもありました。
この年から始まったドラフト会議では、11名中9名が指名拒否をするなど運営にも苦労していました。

 

ジャクソン選手はそんな中97試合で
本塁打20本
43打点
11盗塁を記録しました。
チームは57勝78敗で5位、首位巨人とは37ゲーム差でした。

 

翌年の1967年は、この年に入団したデーブ・ロバーツ選手とのクリーンナップでアトムズ打線を支えます。
この年、ジャクソン選手は
打率296
本塁打28本
打点79をたたき出します。
しかしながらチームは、58勝72敗5分で5位、首位巨人とは26ゲーム差。
また、対巨人相手では3勝23敗で、後楽園球場では13連敗という成績でした。

 

1968年は私生活の乱れもあり、成績は急降下。
本塁打20本は打ちますが、打率は219まで落としてしまいます。

 

翌年の1969年、日頃の不摂生もたたり体調不良を訴えます。
診断の結果で膵臓がんが見つかり、最後は膵臓壊死となり、この年の5月27日に33歳の若さで死去します。

私も幼少の頃、神宮球場でジャクソン選手を見た記憶があります。
サンケイファンの拍手が誰よりも多かったのがジャクソン選手でした。

 

太平洋戦争で日本領土である硫黄島で戦死したメジャーリーガーを除けば、ジャクソン選手は2023年4月現在において、ただ一人、日本で死去したメジャーリーグ経験者です。

 

ボブ・チャンス(アトムズ)


1969年は親会社のサンケイグループが業績不振のため、経営にヤクルトが関わりますが、表面上は共同経営ということで球団名は「アトムズ」となり、球団名に企業名・地域名が入らない唯一のケースとなりました。

 

ボブ・チャンス選手は、ジャクソン選手死去の後、シーズン途中の7月30日からアトムズに加入します。
8月の大洋ホエールズのダブルヘッターの両試合では、ホームランを放ちます。
その後の24試合で12本の本塁打!
野球少年の我々の間では、彼の名前がよく出てきたのを記憶しています。

 

最終的に打率320、本塁打16本、と今後が期待できる成績を残します。
ところが、翌年は何故かさっぱり打てなくなり(打率233、本塁打6本)、この年で解雇となりました。

まあ、こういうことはたまに起きますね。

 

チャンス選手の貴重なショット

 

いかがでしたか?

「助っ人」と呼ばれる外国人選手は毎年多くやってきます。
期待通りに活躍する選手もいれば、期待はずれの選手もいますが、彼らは異国の地、異文化の地、そしてもしかしたら通っていた教会もなく、言葉も通じず、そんな土地で人生をかけた戦いを演じています。

 

我々、野球ファンとしては、彼らの活躍を祈念して応援していきたいものですね。

 

本日はここまで!
また、お会いしましょう!

WBC、JAPAN優勝に思う。日系野球選手の歴史

みなさん、今日は!
木下馨です。

 

だいぶ時間が空いてしまいました。
不定期ではありますがKinopediaを再スタートしていきたいと思います。
改めまして、どうぞよろしくお願いいたします!

 

2023年のWBCはJAPAN の優勝で幕を閉じましたが、この中でラーズ・ヌートバー選手(セントルイス・カージナルス)のJAPAN チームの参加が話題となりました。

 

彼自身はアメリカ国籍ですが、これは大会規定にある「親のどちらかが、その国の国籍を持っている」「親のどちらかが、その国で生まれている」の2つに該当しているため選出されました。

 

彼はまだ25歳、新たな「国際化」時代の到来を感じますが、実は、「日系野球選手」はプロ野球創成期から存在していました。
その歴史をふりかえってみましょう!

 

 

カイザー田中(田中義雄)

アメリカ;ハワイ出身の日系アメリカ人(後に日本国籍を取得)で、1937年に大阪タイガース(現在の阪神タイガース)に入団、捕手でした。

 

カイザー田中監督

 

後に、ヤクルトスワローズに入団する古田敦也選手が「眼鏡をかけた捕手」で有名でしたが、田中選手も「眼鏡をかけた捕手」です。
あの伝説の沢村英治投手に無類の強さを誇ったとされています。

 

戦後、1958年から1959年(昭和33〜34年)にかけて阪神タイガースの監督を務め、小山正明投手(通算320勝)、村山実投手(通算222勝)の二枚看板を育てました。
ちなみに、村山実投手は関西大学出身のいわゆる「大学出身」のプロ野球選手であり、かつ、200勝以上した初めての投手です。
彼以外の「大学出身」のプロ野球選手で200勝以上は、広島カープ、後にMBL(メジャーリーグ)で活躍した黒田博樹投手(専修大)がいるだけです(日本で124勝、メジャーで79勝)。

 

1960年代、阪神タイガースは2度リーグ優勝をしていますが、その基礎を作ったのも田中監督と言えるでしょう。
また、長島茂雄選手(巨人)が村山実投手からホームランを打った有名な「天覧試合」(天皇がスポーツ観戦をする試合。時に1959年6月25日)も田中監督でした。

 

エンディ宮本(宮本敏雄)

 ハワイ出身で、本名はアンドリュー・トシオ・ミヤモト。
ハワイ陸軍選抜チームの主力で活躍していた彼が読売ジャイアンツに入団したのは1955年でした。

 

エンディ宮本選手;キャッチは「ファイトを飲もう!」だったんですね。

 

2年目の1956年、1957年と2年連続の打点王に輝きます。
またこの年の三振王でもありましたが、打っても、三振しても爽やかな笑顔が特徴的であったそうです。

 

1961年の日本シリーズでは首位打者、そしてMVPにも輝いています。
また、我々の世代では王貞治さんがCMキャラクターであった「リポビタンD」の初代キャラクターはエンディ宮本選手です。

 

カールトン半田(半田春夫)

 彼もまた日系アメリカ人でハワイ出身です。
高校時代は投手で全米代表にも選ばれています。
ヒューストン大学を出てマイナーリーグに進みますが、1958年に南海ホークスに入団します。

 

カールトン半田選手:写真は東映フライヤーズコーチ時代

 

内野のユーティリティプレーヤーとして活躍、1960年と1961年の2年連続でオールスターゲームにも選出されます。
このオールスターでは板東英二投手(中日)から、オールスターゲーム史上初となるランニングホームランを記録しています。

 

その後、1962年に寺田陽介選手、長谷川繁雄選手とともに、中日ドラゴンズにトレードされます。
この年をもって引退するのですが、後の名二塁手、高木守道選手にバックトスを教えたのは半田選手と言われています。

 

*****

彼らは言葉の壁にも苦しみ、チームやファンに溶け込む労も惜しまなかったと言われています。
与那嶺選手の項でも書きましたが、太平洋戦争が終わってまだ20年ほどですから、「日系アメリカ人」としての偏見もあったことでしょう。

 

しかし、彼らはいつも嫌がらずファンにサインをしていました。

 

与那嶺選手のエピソードとしては、後楽園球場で次々にサインを断られ、泣きそうな顔をしていた小学生にサインをしたことがあったそうです。
それもゴムボールであったとか。

 

軟球や硬球はその少年には高価であったかもしれません。
その小学生の名は、王貞治少年。
有名なエピソードですね。

 

本日はここまで。
また、お会いしましょう!!