世界の政治

ロシア軍ウクライナ侵攻に思うこと【緊急投稿】

皆さん、こんばんは。
木下馨です。

 

フィンランドとの戦い(ソ・フン戦争)について、前編、中編と投稿しましたが、後編に入る前に、ロシア軍がウクライナに侵攻しましたので、ウクライナの歴史を交え緊急投稿したいと思います。

前編はこちら
「雪中の奇跡」〜ソ連・フィンランド戦争【前編】

中編はこちら
「雪中の奇跡」〜ソ連・フィンランド戦争【中編】

 

 

小国ウクライナの大国に蹂躙された歴史

 

そもそもウクライナは13世紀以降、モンゴル帝国の侵攻により領土が破壊されました。
その後、ポーランド・リトアニア共和国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、帝政ロシアなど、さまざまな国によって支配され、分割されてきました。

 

17世紀から18世紀にかけてコサック・へーチマン国家が誕生し、繁栄しましたが、その領土は最終的にポーランドと帝政ロシアの間で分割されました。

 

ロシア革命後、ウクライナの民族自決運動が起こり、1917年6月23日、国際的に認められたウクライナ人民共和国が宣言されました。
この時、バルト三国(リトアニア、エストニア、ラトビア)やフィンランドも国家建設を宣言します。

 

しかしながらロシア革命後、スターリンの圧政により過酷な運命がウクライナを襲います。
いわゆる「ホロドモール」です。
共産党政権では皆さんも中学校の教科書でも習ったと思いますが、「コルホーズ」「ソフホーズ」などの「集団的農場」を推し進めますが、ウクライナの農民は反対したわけです。

 

そこでソビエトは、「ヨーロッパの穀倉地帯」といわれ、肥沃な大地のウクライナにおいて「人工的な大飢饉」状況を作り出します。
なおかつ、ウクライナ人は強制的に移住をさせられ、農地や家畜を奪われました。
いくつかの説がありますが、ウクライナでは400万から1500万人が死亡しました。

 

これはジェノサイド(大量虐殺)と言えるものでしょう。
これが「ホロドモール」です。

 

また、コサック:(日本ではダンスとかコサック騎兵で有名ですね)国家のため、ロシア帝政時代ではウクライナの「コサック兵」は最強の軍隊の一翼を担っていましたが、「独立」となると、ソビエトの最強の敵になるのでこれも弾圧の対象でした。

 

ドイツ側で戦ったコサック兵

 

ナチス・ドイツが1941年にソビエトに侵攻すると、“スターリンの圧政からの解放者”と初めはドイツ軍を見る向きもありました。
しかしヒトラーは、ドイツ人の「『アーリア民族』以外はただの『下等民族』とみなす」思想だったため、やはりこの時代も人民は圧政に苦しみます。
また、ウクライナ国土は大きな戦場となりました。

 

ウクライナのキエフ包囲戦や第二の都市;ハリコフは、ナチスが占領後の1943年、「スターリングラード」の戦いでソ連軍が勝利します。
ソ連軍は、敗走するドイツ軍を追撃しハリコフを奪還しますが、その後ドイツ軍の反撃に遭い、再奪還されます。

 

また、「天然の要塞」といわれたウクライナのドニエプル河を巡って、1943年には「ウクライナ解放」のためソ連軍は大攻勢をかけます。
第二次大戦の中でも最も大きな犠牲がでた戦いの一つで、ソ連軍とナチス軍の双方、170万人から270万人と推測されています。

 

クリミア半島のセヴァストポリの「セヴァストポリ要塞」を巡る戦いも苛烈な戦いでした。
また、戦闘の犠牲だけでなく、「バビ・ヤールの虐殺*」など、ユダヤ系住民の虐殺、強制収容所への投獄、殺害は前述のスターリンのホロドモールとともにジェノサイドと言えます。

*ナチスによるウクライナのユダヤ人への虐殺。1941年、首都キエフ郊外のバビ・ヤール峡谷でナチスの虐殺によって3万以上が殺戮されました

 

セヴァストポリ要塞に投入されたグスタフ重列車砲

 

当然、「反ナチス」によるレジスタンスも起こりますが、「反スターリン」も存在し、「ロシア解放軍」という親独の軍隊に入隊する者や武装親衛隊(第14武装擲弾兵師団)に入隊する者も多数いました。
もちろん、ソ連赤軍側で戦う者もいて、「同国人」で戦闘する悲劇も至る所で起こりました。
結果、ウクライナ人の5人に1人は戦死したと言われています。

 

第二次大戦中、ウクライナの国土は戦場と化しました

 

ウクライナは第二次大戦後、ソビエト連邦の一部となりました。
その後ペレストロイカ:ソ連崩壊に伴い、1991年にウクライナは独立をします。

 

大国に蹂躙される小国の悲劇の歴史ですが、そもそもなぜあのような広い国土を持っているロシアがウクライナに侵攻するのでしょうか?
プーチン大統領の心の奥底、全ては分かりませんが、いくつか思い当たる節はあります。

美しい首都キエフ

 

 

侵略されたトラウマ

 

過去、ロシアはナポレオンとナチス・ドイツに侵攻され国土が蹂躙された歴史があります。

 

ナポレオンは一時、モスクワを占領します。
ドイツ軍は「モスクワ攻略タイフーン作戦」でモスクワ前面の重要都市、カルガとカリーニンを占領し、クレムリンの尖塔が見える約33km手前まで進撃してきました。

 

結局、冬期装備が十分でなかった戦略的な失敗のため「冬将軍(ロシアの厳しい冬)」によって敗退しますが、1945年の終戦までにはソビエト連邦人民は、約2千万人という犠牲者を出します。

 

このことから、国境線を1mmでも遠くにしておきたい、緩衝地帯を設けたいという思考になっていると思います。

 

 

ソ連邦への野望

 

今のロシアは「大ロシアブロジョワジー」(大ロシア主義)と言えるものでしょう。
ペレストロイカで失った(独立された)国と地域を、今一度「ロシア帝国の一部」にしたいという思惑です。

 

かつては、その牽制をアメリカがしていましたが、いまや今ひとつの大国;中国がサポート役に回り、2大強国として世界の秩序を「力による変更」ができる状況になっています。

 

 

今後の歴史は?

 

西側と呼ばれる国々はこの「力による秩序変更」をどう見ているでしょうか?

 

1938年、似たような事例がありました。
チェコのズデーデン地方は「ドイツ系住民」が多く住んでいました。
ヒトラーは、「ドイツ系住民の保護」を名目に、「戦争も辞さない」覚悟で「割譲」を要求します。

 

イギリス、フランスは慌てました。
ほんの20年前、第一大戦で多くの若者が命を落とし、国土は荒れ果て戦争はこりごり、という機運でした。

 

ヒトラーは「領土の要求はこれが最後」と約束したのが「ミュンヘン会談」でした。
戦争を避け、平和を守ったとして、時のイギリス首相:チェンバレンに歓呼の声で迎えられました。
しかしながら、翌年にはチェコ全土もドイツ軍が占領し、「ベーメン・メーレン保護領」となり圧政に苦しみます。
そしてヒトラーはポーランドに侵攻し、第二次大戦が始まります。

 

どうです?
ウクライナ状況と酷似していませんか?

 

西側は、戦争は避けたい、というのをプーチン大統領は見透かしているのです。
西側の足並みの意見もまとまらないだろう、と読んでいるのではないでしょうか?
また、絶対「核戦争」は避けるだろうと。
恫喝ができると思っているかもしれません。

 

 

過去も西側は動かず

 

1956年、ハンガリーでは「ハンガリー動乱」が起きました。
これは、ソビエト連邦の権威と支配に対する民衆による全国規模の蜂起のことですが、何故蜂起したかといえば、隣国:オーストリアに駐留しているアメリカ軍がすぐに救援に来てくれることを期待したからです。

 

しかし、アメリカ軍は一歩も動きませんでした。
1968年にチェコスロバキアで起きた「プラハの春*」のときも、時のアメリカ大統領・ジョンソン大統領は動かず、そして国連も具体的な方策も打てず、チェコ人民が圧政に苦しむことになります。
大国は常に、自国の事情を優先させる、といえるのではないでしょうか。

*チェコスロバキアの変革運動に対しソ連軍を中心にするワルシャワ条約機構軍がチェコスロバキア全土を占領した事件

 

 

日本への影響は?

 

ウクライナはヨーロッパの穀倉地帯、特に小麦の大量生産地であるので、小麦の大半を輸入に頼っている日本の影響は避けられないと思います。
石油価格も上昇、レギュラーガソリンが200円もすぐにやってくると思います。
ガス・電気料金も上がり、やがて日本中の原発を再稼働しなくてはならない日も、危険覚悟でやってくるでしょう。

 

台湾問題も絡んでくるのも必至かとも思いますが、当面、インフレ(物価上昇)のための生活防衛が当面の課題になることでしょう。
コンビニ弁当:1500円が当たり前になるかもしれません。

 

本日は、ここまで。
このブログは2月26日に書いていますが、ウクライナの首都キエフにロシア軍が攻勢をかけている状況です。

 

追伸

今となっては笑えない「スターリンジョーク」を最後に。

 

アメリカ人が3カ国の友人に質問しました。
『君たちは国内、海外で乗る車は何かな?』

 

イギリス人:「国内ではミニローバー、海外ではジャガーだね」
ドイツ人:「国内ではフォルクスワーゲン、海外ではベンツかな」
ロシア人:「国内ではモスクヴィッチかラダだな」

アメリカ人:『ほう、海外では?』
ロシア人:「もちろん、戦車だ!」

「雪中の奇跡」〜ソ連・フィンランド戦争【中編】

皆さん、こんにちは!
木下馨です。

 

前回は、ソ・芬戦争【前編】をお送りしました。
前回はこちら
「雪中の奇跡」〜ソ連・フィンランド戦争【前編】

 

今回は【中編】となります。
では、その後どうなったかを『雪中の奇跡』を紐解きながらみていきましょう。

 

 

兵も装備もソ連の半分以下だったフィンランド軍

前編にもお話しした通り、当時のソ連の人口は1億7千万人、対するフィンランドは総人口三百七十万人。

 

ソ連軍はフィンランド侵攻に対して、兵員数45万人を動員します。
装備については次の数量を投入しました。
・各種大砲1900門
・戦車2400両
・航空機670機

 

これに対してフィンランド軍は、19万人に動員をかけますが、その装備は非常に貧弱でした。
・対戦車砲120門
・機関銃4500丁
・航空機160機

機関銃こそ4500丁ありますが、航空機はソ連の1/4しかなく、その中でも近代的な戦闘機はフォッカーD21が36機だけ、と心細い限りでした。

 

当初、ソ連軍は3日間で戦闘は終わる、と信じていました。
そして兵には外套も支給していませんでした。

 

また、さらに悪いことにソ連軍には雪に慣れていない、南のキルギス、ウズベクスタン、トルクメン、アゼルバイジャン、アルメニア等の兵士が多数含まれていました。

 

対するフィンランド軍の多くの兵士は、人生のおよそ半分をスキーの上で暮らしてきた一流のスキーヤーでした。
また、元々が狩猟民族で射撃もうまく、狙撃に関しては一流でした。

フィンランド軍総司令官:マンネルハイム元帥(中央)

 

フィンランド軍を有利に導いた大寒波

 

ソ連軍が進撃を開始したときは、気候が普段の冬より暖かく、道路が泥濘と化し、湖沼の多いカレリヤ地方では思ったように進撃ができません。
また、年が明けると一気に気温が下がり、大寒波が押し寄せました。

 

暖をとるソ連軍兵士に対し、どこからともなくスキーを自由に使うフィンランド兵士が銃弾の雨を降らせます。
彼らは機関銃の冷却水にグリセリンなどを混ぜて凍結防止をしていましたが、対するソ連軍は銃が凍って打ち返すこともできませんでした。

 

ソ連軍に対して、代表的な攻撃は第四十四機械化狙撃師団への攻撃でした。

 

第四十四機械化狙撃師団の兵力は一万八千名、しかし、唯一の補給路であるラーッテ林道は林道に並行して作られた秘密ルートを使って、ソ連軍の最前線から遥か後方にまで自在に移動するフィンランドスキー部隊によってずたずたに寸断されていた。
フィンランド軍は物資輸送隊と野戦炊事車を集中的に攻撃していた。(中略)

ソ連軍部隊はこの地獄から逃げ出すため道路に殺到した。
馬で牽かれた重砲は恐るべき渋滞の中で身動きがとれなくなり放棄された(中略)

一月六日、遂にソ連第四十四機械化師団のヴィノグラドフ中将は退却を決意した。
彼は各連隊本部に装備機材の破壊を命じ、夜二十一時三十分以降、北方への脱出を開始するよう指示した。
脱出が開始されると間もなくソ連軍部隊はバラバラに分裂してしまったが、その日の真夜中の少し前、幾つかの部隊は北方に血路を開いた。
暗闇の中、フィンランド兵は逃げ出そうとするソ連兵を狙って一晩中射撃を続けた。(「雪中の奇跡」P115-118P)

 

フィンランド軍パトロール隊

 

また、この日の気温はマイナス46度になり、数十年ぶりの最低気温でした。
それは、天幕が不足しているソ連軍にとっては致命的な低温となりました。

 

この脱出戦は恐るべき悲劇に終わった。
暗闇の中、不案内な雪の森の中に走り出したソ連兵の大半は、そのまま二度と森の中から姿を現すことはなかった。
少数がフィンランド軍の捕虜になり、もっと少数の兵だけが脱出に成功し命を長らえることができた。
脱出命令が出た時、ソ連軍の軍医や看護婦たちも負傷者を農家や救急車の中に置き去りにして森の中に走り込んだ。
残された負傷者も、逃げ出した医者や看護婦も大半が凍死した。(「雪中の奇跡」:P119)

 

壊滅したソ連軍戦車

 

ソ連軍の大義なき戦い

 

ソ連軍の被害は異常なほど大きかったのです。

 

捕虜になったソ連兵は比較的少数だった、全部で千五百名。
一方、戦死者は二万三千名とちょっと異常な程多かった。
そのうちの一万七千五百名が第四十四機械化狙撃師団の戦死者であった。(「雪中の奇跡」:P120)

 

「大義なき戦い」というものは大きな犠牲を伴うものかもしれません。
歴史的に見て序盤のソ・芬戦争ではまさにそういう戦いでした。
それを現すエピソードは次の通りになります。

 

捕虜になった第四十四機械化狙撃師団の連隊長だったある大佐はフィンランド軍の尋問に対してゆっくりとした優しい口調で話し始めた。
「この戦争は一体誰のために、特にここでの戦闘は何のために行われたのか?
私がツァーリの将軍達、デニーキンやコルチャーク(木下注:ロシア革命内戦における白軍:帝政派の将軍)と戦っていた時には、その理由がちゃんとわかっていた。
我々は土地は農民のために、そして工場はそこで働く労働者達のためにあるべきだとして戦っていた。
だから我々は勝てたんだ。

(中略)私の部下達はソ連で最も優れた兵士だった。
最も良く訓練され、装備も最高だった。
私の連隊がレニングラード(木下注:現サンクトペテルブルク)の駅で乗車している時、後に残される連中は我々にこう挨拶したものだ。
“フィンランドに行ったって、どうせ君達には何もすることがないだろうよ、ただ道をどんどん進んでいくだけだろ。新年の晩にはオウル(木下注:フィンランド中部の都市)でまた会おう”」(「雪中の奇跡」:P120-121」)

 

しかし、結果は全く正反対になりました。
ソ連軍の威信は地に落ちました。

撃墜されたソ連軍機

 

惨敗したソ連軍将校たちの行く末

 

しかし、指導者達は「敗戦の責任」を現場に押し付けます。
これはどこの国でも同じことが繰り返されます。
太平洋戦争時の日本軍も同じです。
ソ連の指導者はどうしたか。

 

ヴィノグラドフ中将を始め、第六六二狙撃連隊長サーロフ、連隊の政治委員ボドームトフ、第六六二狙撃連隊第Ⅲ大隊長ツァイコフスキー大尉など脱出した指揮官は、敗北の責任を厳しく糾弾され、ソ連軍最高司令部の命令で処刑された。
第一六三狙撃師団長セレンツォフ少将の運命は伝えられていない。
フィンランド軍は三倍の敵と戦って、十倍の損害を与えたのである。
ある米国のジャーナリストはこれを「雪中の奇跡」と呼んだ。(「雪中の奇跡」;P121)

 

世界はフィンランドの善戦を称賛しました。
しかし、フィンランドが欲しているのは、言葉での応援ではなく、戦う武器であり、食料品であり、戦費であり数々の備品でした。

 

しかしながら、世界はナチス・ドイツがポーランド占領後、フランスとイギリスに侵攻するのではないか、ということが重大懸案事項でした。

 

この後、フィンランドの孤軍奮闘はどうなるか。
その話は【後編】にお話していきます。

 

本日はここまで。
またお会いしましょう!