木下流プロ野球「助っ人列伝」!!

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みなさん、こんにちは!
木下馨です。

まだまだ暑い日が続きますね。
夏の甲子園大会も終わり、プロ野球も残り30試合前後になってきました。
応援しているチームや選手の状態によっては、状況悲喜交々な状況です。

今や、どのチームもいわゆる「助っ人」と呼ばれる外国人選手の活躍がチームの盛衰を決めかねない、というのは異論のないところでしょう。

私も、物心ついたときから、多くの「助っ人」を見てきましたが、期待倒れに終わってしまう選手も多くいました。

今回は、その中で野球に興味が出てきた幼少期から(子ども心に凄いな!と)印象に残っている選手を何人かあげていきたいと思います。
全くの「主観」でありますので、その点ではご了承いただきたいと思います。
また、おひとりの方は現役時代ではなく監督、コーチになってからその存在を知り、今回紹介する方もいらっしゃいます。

 

その前に、2020年5月20日と5月31日に掲載した記事も、関連していますのでぜひご覧ください。
人種差別に立ち向かった偉大な男たち前編「ジャッキー・ロビンソン」
人種差別に立ち向かった偉大な男たち後編〜日本プロ野球編〜

 

では、始めましょう。

 

ケント・ハドリ選手:南海ホークス

日本シリーズ記録保持者

この選手を見たのは幼少時代(正確には1963年のオールスター戦)でした。
TV中継は全て読売ジャイアンツ戦であったこの時代、特にパリーグの選手を観察できるのはオールスター戦か日本シリーズ(ほとんどセリーグはジャイアンツでしたが)しかありませんでした。

当時のパリーグもすごい選手が多かったと記憶しています。

オールスター戦は、意地もあるのでしょう、パリーグが強い印象でした(現在も強いですが)。
野村克也(南海)、榎本喜八(大毎:現ロッテ)、張本勲(東映)などは子ども心にも「スゲー!」と思った選手たちでした。

ハドリ選手は主砲:野村選手が不動の4番でしたので、主に5番打者として活躍。
キャリアハイの1963年には、

137試合
.295(518打数153安打)
25二塁打
30本塁打
84打点
67得点
盗塁3

を記録しています。

 

ケント・ハドリ選手

 

1967年に退団となりますが、ハドリ選手は人格者であり、誰からも愛される選手であったようです。
退団して米国に帰国する際には、当時の鶴岡一人監督がわざわざ空港まで見送りに行き、涙ながらの別れであったとか。

また、日本プロ野球の長い歴史の中、日本シリーズで2本のサヨナラホームランのシリーズ記録をこのハドリ選手が持っています。

 

与那嶺 要(ウォーリー・ヨナミネ)選手:読売ジャイアンツ〜中日ドラゴンズ

現役時代

私が記憶にあるのは、中日ドラゴンズ時代のウォーリー与那嶺バッティングコーチ、や監督でした。

現役時代は、水原茂監督時代(1950年代)のジャイアンツで不動の1番バッターであり、戦後初の「外国人選手」となりました。
1951年(昭和26年)のことです。
戦後からまだ6年しか経っておらず、「アメリカ国籍」の選手が日本プロ野球でプレーすることはかなり慎重に検討されたとのことです。

 

首位打者3回、そして戦後初の外国人選手として活躍した与那嶺要選手

 

ちなみに余談になりますが、広島カープは長らく「外国人選手」を獲得しない球団でした。
これはやはり長らく戦争の影響がありました。
広島カープが初めて「外国人選手」「助っ人」を入団させたのは1972年(昭和47年)※1で、ソイロ・ベルサイエス選手(キューバ国籍)でした。
二人目も同じキューバ国籍のトニー・ゴンザレス選手です。
当時、典型的なアメリカ白人選手を入団させなかったのは、県民感情を考慮していたためかもしれません。

※1 日系人やアジア系定住者は除きます。

 

与那嶺選手に話を戻しましょう。

 

当時、サンフランシスコ・シールズ(メジャーではなくAAAのチーム)の監督であったレフティ・オドール監督の勧めで来日して、前述のようにジャイアンツと契約しました。

ちなみにオドール監督は亡くなるまでサンフランシスコを愛し、サンフランシスコのゲイリー大通りに「レフティ・オドールのレストラン&カクテルラウンジ」という店があります。
木下は2016年にこの店を訪れたことがあります。

 

レフティ・オドールのレストラン

 

アメリカン・フットボール選手でもあった与那嶺選手の現役時代のプレーは、併殺崩しや本塁突入時のクロスプレーなど、本場仕込みの走塁技術を発揮した選手です。
一見、ラフプレーとみえるそのスタイルは対戦相手やファンからも激しいヤジが飛び、初めは審判までも指摘したそうですが、水原監督は全面的に与那嶺選手のプレーを支持したとのことです。

のちにジャイアンツの監督となった川上哲治選手とは、お互いライバル心が猛烈にあり、1961年に川上監督になった際にはライバルのドラゴンズに移籍し、開幕戦のジャイアンツ戦で決勝ホームランを放ちます。

 

コーチ・監督時代

私が記憶しているのはコーチになってからの与那嶺さんでした。
忘れもしない1974年、ジャイアンツの「V10」を阻止して20年ぶりにセリーグ優勝したドラゴンズの監督としてです。
このとき、恩師でありドラゴンズに移籍していた水原監督※2の後を受けて、1972年から1977年まで監督を務めていた時期でした。

※2  ドラゴンズ監督期間:1969〜1971年。成績は4位、5位、2位で監督人生初めてBクラスを経験。

 

中日監督であった1974年、20年ぶりの優勝を決めた与那嶺要監督(中央メガネ)

 

1974年は本当に熱い1年でした。

坂東英二さんの「燃えよ!ドラゴンズ」がヒットしたのもこの年です。
今でもこのバージョンは歌えます(笑)。

また、ドラゴンズとジャイアンツは親会社同士もライバルでしたし、ドラゴンズの監督は与那嶺監督、対するジャイアンツの監督はライバルの川上哲治監督でした。
私もこんな捻くれた性格になったのは(笑)、ドラゴンズが常にジャイアンツに敵わず、優勝は常にジャイアンツだったからでしょう。

 

人柄

与那嶺監督時代は、ドラゴンズもジャイアンツと互角に戦っていたと思いますが、試合が負けてくると「哲のヤロー!!チクショー!」と叫んだり、試合前のミーティングでも「哲に負けるな!」と片言の日本語で檄を飛ばしていたそうです。

その熱いスピリットとは裏腹にユニフォームを脱ぐと温厚、愛情溢れる人柄で、当時の監督としては珍しく開幕戦の前や移動日に東京の自宅に選手全員を呼んで、家族(特に奥様)総出で家庭料理を振舞ってもてなしたそうです。

王貞治さんに影響を与えたエピソードもあります。

王貞治さんは、少年時代に後楽園球場で与那嶺選手に出会っています。
ジャイアンツの試合を観に行った王少年は、ジャイアンツ選手のサインがほしくてボールを持っていきました。
しかし、経済的に豊かでなかったため、硬球が買えずゴムボールでした。
多くの選手が、王少年の差し出すボールにサインをしてくれませんでしたが、唯一、与那嶺選手だけが気さくにサインをしてくれたそうです。

与那嶺選手は、子どもたちからのサインを一度も断らなかったそうです。
王貞治さんが偉大な記録を残せたのも、また、与那嶺選手同様、ファンを大切にする姿勢もこのことがきっかけであったことは確かなことでしょう。

ご子息は日本IBMの社長を務めたポール与那嶺さん。
みなさまの中でもビジネスで関わった方がおいでになるかもしれませんね。

 

 

アーロン・ポインター選手:西鉄ライオンズ(現西武ライオンズ)

グラミー賞受賞アーティストの兄

アーロン・ポインター選手は、1970年に「黒い霧事件」で戦力ダウンした西鉄ライオンズに入団します。
1年目、打率.260、本塁打22本、打点67とまずますの成績でしたが、戦力ダウンの西鉄ライオンズでは4番を務め、その成績はチームで1番の成績でした。
しかしながら、2年目以降は成績が下降し、西鉄では3年で退団しています。

 

ポインター選手。写真はMLBのもの

 

大した成績を残した選手ではないのですが、なぜ取り上げたかというと、音楽好きの皆さまは聞いたことがあると思いますが、女性コーラスグループ:ポインターシスターズは彼の妹たちであった、ということです。
エディ・マーフィー主演;ビバリーヒルズコップの挿入歌は有名ですね。

また、絶頂期はグラミー賞を2度、3部門で受賞しています。

そういう選手が、日本でプレーしていた、というのは面白いですね。
彼も妹たちを大変気に入っていて、レコードは全てもち、帰国してからもコンサートには時間を作って行っていたということです。

「こんな選手もいたのか」という珍しいことなので紹介させていただきました。
ポインター・シスターズは知っていても、その長兄であるアーロン選手を知っている人は少ないのではないでしょうか。

本日は、ここまで!
また、お会いしましょう!

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