人種差別に立ち向かった偉大な男たち前編「ジャッキー・ロビンソン」

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みなさん、こんにちは。

木下馨です。

 

球春まだ来ぬこの季節、本日は速報で、夏の甲子園大会の中止が決定しました。

仕方ないとはいえ、野球ファンとしては残念でなりません。

今年のプロ野球もどうなることやら。

いつものように、野球観戦のできる日が待ち遠しいかぎりです。

 

今回の話題は、私も大好きな「野球」について、いくつか書いてみたいと思います。

前編・後編にわたって、ジャッキー・ロビンソンはじめ、偉大な先人の何人かについてお話ししてみましょう!

 

初の黒人メジャーリーガー

ジャッキー・ロビンソンがなぜ有名かといえば、第二次大戦終了後の1947年、20世紀になって初めての「黒人メジャーリーガー」になったからです。

我々日本人の想像を絶する人種差別が残っていた時代の話です。

 

その証拠に、入団した「ブルックリン・ドジャース」(現在のロサンゼルス・ドジャース)では、黒人とのプレーを拒否した数人が球団を辞めていきました。

さらに、相手チームだけでなくファンからも心無い野次も起こり、加えて、対戦相手からの対戦拒否。

まさに、想像を絶する人種差別でした。

 

試合前のジャッキー・ロビンソン(右)

 

彼一人の力では、この差別には勝てなかったでしょう。

ロビンソンを抜擢した当時のオーナー、ブランチ・リッキーは、オーナー会議で15対1で反対されたにも関わらずプレーを支えました。

 

入団に伴い、ブランチ・リッキーはロビンソンにこういいます。

君は、これまで誰もやっていなかった困難な戦いを始めなければならない。

その戦いに勝つには、君は偉大なプレーヤーであるばかりか、立派な紳士でかねればならない。

仕返しをしない勇気を持つんだ。

こういってから、ロビンソンの右の頬を殴ったそうです。

 

ロビンソンは、

頬は、もう一つあります。ご存知ですか。

と答えたといいます。

 

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ロビンソンは子どもの頃から、勉強もスポーツも秀でていて、大学でも、軍の幹部候補生学校でも優秀な成績を修めています。

そして、彼が所属する組織には人種差別が存在し、彼は常に人種差別と戦っていました。

才能豊かな人でしたが、人種差別によって、その才能を発揮する場所を奪われていました。

しかし、彼は何度も周囲の人に助けられています。

それは、ただ単にロビンソンが幸運だった、

というわけではなく、日々の彼の姿勢をとおして、彼に敬意を抱く人が多かったからかもしれません。

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MLBのオーナー会議では、ドジャースを除く全15球団がロビンソンのメジャーでのプレイを反対し、その中でも数団はドジャースに対し脅しのような発言もしています。

しかし、コミッショナー:ハッピー・チャンドラーは、ドジャースを支持。

ナショナルリーグ会長のフォード・フリックは、

「ドジャースと対戦拒否した場合は、出場停止や没収試合」を明言しました。

 

また、監督のレオ・ドローチャーは、

自分は選手の肌が黄色であろうと黒であろうと構わない。

自分はこのチームの監督である。

優秀な選手であれば使う。

もし自分に反対する者がいたら、チームを出て行ってほしい。

と語ったそうです。

(レオ・ドローチャーは、晩年の1976年に、太平洋クラブライオンズ(現、西武ライオンズ)に監督受諾するも、病気で来日できなかった)

 

ジャッキー・ロビンソンは、1949年には、最高打率349で首位打者、37盗塁で盗塁王でMVPに輝きました。

また、黒人選手として、ロイ・キャンパネラ、ドン・ニューカム、ラリー・ドビーと共に、初のオールスターゲームに出場を果たしました。

 

しかしながら、映画「42〜世界を変えた男」にも描かれていますが、試合が終わってシャワーを浴びる時、白人選手が終わってから入るようにしているシーンもあり(シャワーを浴びると白人選手がすぐに出てしまう)、差別は根強く残っていることが描かれています。

 

ジャッキー・ロビンソンを描いた伝記映画

 

今日はここまで。

続きは後編で!

本日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

※ アイキャッチ画像はこちらからお借りしました。

Dodgers, MLB honor No. 42

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