二人の「歴史の証人」〜木下が尊敬する写真家:ロバート・キャパと沢田教一 (後編)

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皆さんこんにちは!
木下馨です。

今回は後半の沢田教一を取り上げたいと思います。

 

前編はこちらから。

二人の「歴史の証人」〜木下が尊敬する写真家:ロバート・キャパと沢田教一 (前編)

 

大学を卒業して新社会人時代、
青木冨貴子さん著『ライカでグッドバイ:沢田教一が撃たれた日』を読んで、まだ「ピュリッツアー賞」とは何かわからない若輩者でしたが、同じ日本人で「すごい人がいるんだ」と思ったのを覚えています。

 

ライカでグッドバイ:沢田教一が撃たれた日

 

また、「ライカ」というカメラにすごく興味を引かれました。
「カメラは日本のニコンかキャノンだろ」
と当時は思っていましたが、ライカを調べたらめちゃくちゃ高い(笑)カメラだ!と思ったものです。

80年代はGoogleはもちろん、ネットはありません。
この本も月刊紙からのトピックで紹介され、興味を持って購入したと記憶しています。
(確か月刊プレイボーイかと。プレイボーイも、週刊と月刊がありました。時代ですね)

 

沢田教一は「日本のキャパ」と言われました。

 

青森出身の寡黙な青年が、まさに「三段跳び」で報道カメラマンになれたのは、ベトナム戦争が全面戦争になる時期に合わせて自費でベトナムに渡り、UPI通信社サイゴン支局でカメラマンとして働けたことが大きく影響しているでしょう。

そして1965年9月に、翌年のピュリッツアー賞を受賞(写真部門)する「安全への逃避」を撮影します。

 

「安全への逃避」
この作品は、女性と子どもが村から逃げていく瞬間を撮影している。村は、南ベトナム開放民族戦線が基地にしていたため、米軍の爆撃を受けている。村が基地であることから、この攻撃の手が緩むことがないことを知っていたのだろう。

 

 

ちなみに、日本人でピュリッツアー賞(写真部門)を受賞した人は3人います。
「安全への逃避」の沢田教一と同じく、ベトナム戦争で写真集『より良きころの夢』を出版した酒井淑夫。

 

酒井淑夫「より良き頃の夢」120枚の写真集が受賞。
酒井は、長い戦場取材経験から、大雨が静けさをもたらし、静寂なる写真を撮影できることを知っていた。多くの戦場写真とは好対照をなす、非道極まりない中の、ひとときの静けさ。日本人で3人目の受賞者となった。

 

 

あと一人は「浅沼社会党委員長の暗殺」の長尾靖。

 

長尾靖「浅沼社会党委員長の暗殺」
日本人初のピュリッツアー賞を受賞した作品。
1960年10月12日、日比谷公会堂で日米安全保障条約をめぐる、各党党首による演説会が行われた。社会党書記長の浅沼稲次郎が登壇すると、野次が飛び、演壇に上がってビラを巻く人もいた。そんななか、1人の学生服を着た青年が舞台袖から浅沼めがけて走り寄り、短刀を腹部に突き入れた。その後、心の臓を突く。浅沼は救急搬送中に死亡。襲撃者は拘留中に自死。動機は不明のままとなった。この会場には、他にも多くの報道カメラマンがいたが、格好のポジションを取った長尾だけが、この事件の瞬間を捉えた。

 

 

沢田がベトナムに滞在したのは、1965年2月~1968年8月。
ベトナム戦争が一番激しかった時期と重なっています。
私が小学生で、立川上空を飛ぶ米軍機を見ていた時期です。

ロバート・キャパもそうでしたが、報道カメラマンにとって戦場とは麻薬のようなもので、一度経験すると身を焦がす衝動によって舞い戻る他はない場所のようです。

 

テト攻勢(1968年)後、フエに赴き攻防戦の写真も多く撮っています。
ちなみに、フエでの攻防を描いた映画が、
キューブリック監督の『フルメタルジャケット』です。
映画の後半部分の戦闘シーンをご覧になった方もいらっしゃるでしょう。

 

「“決定的瞬間”を撮るためには、自分を決定的場面に置かないと撮れない」
というのは、キャパも沢田も同じ心境だったのでしょう。

 

そして、「新たな危険」を求め、1970年にサイゴンに戻りカンボジアを取材中、ゲリラによって襲撃され命を落とします。
享年34才でした。

 

米軍兵士にカメラを向ける沢田教一
戦争の最前線に入り込み、進行する米軍兵士の前にわざわざ躍り出て撮影している。沢田は最期、戦地に取材にいく途中で襲撃される。危険な夕方の時間帯、自衛する防具を一切身につけていなかったという、通常ならあり得ない状況だった。所持していたカメラ道具一式は、すべて持ち去られていた。そこには、どのような瞬間がおさめられていたのだろうか。

 

 

キャパと沢田が使っていたカメラ

 

最後にキャパも沢田もよく使用していたカメラについてお話ししましょう。
キャパはノルマンディー上陸作品時、コンタックスを使用したと言われています。
上陸後はコンタックス2台、ローライ1台を使用していたようです。

沢田は本の題名にもなっているライカを愛用してました。
この本にも本人談として、
「日本のカメラは写りが悪い」
「日本のカメラを使うと壊れちゃうんだよ」
といって、日本製のカメラを使いたがらなかったという話があります。

 

彼は1967年だけで、ライカのボディ6台(M3を3台、M2を2台、M4を1台)所有していたそうです。
ニコンFも使用しましたが、望遠レンズのみは使用したとのこと。

 

歴史の瞬間を映した二人の偉人はその道具にもこだわった、ということでしょうか。
彼らに限らず名人にはその手に馴染んだ「名機」があるものです。

また、「その時代」が彼らを世に出しスポットを浴びせ、時代が彼らを遠い世界に連れて行ったかもしれません。

本日はここまで。
最後までお付き合いいただきありがとうございます。

また、お会いしましょう!!

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