夏の全国高等学校野球選手権大会;独断と偏見で選ぶ左腕投手ベスト3 (昭和版)

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みなさんこんにちは!
木下馨です。

 

前回は「夏の全国高等学校野球選手権大会」の「左腕ベスト3」のお話をさせていただきました。
<前回はこちら>
夏の全国高等学校野球選手権大会;独断と偏見で選ぶ左腕投手ベスト3 (平成版)

 

今回は「昭和版」の左腕;ベスト3をあげていきたいと思います。
なお、昭和、と言いましても今回は第二次世界大戦終戦後の1946年以降でお話できればと思います。

また、今回も「独断」と「主観」でありますので、皆様の評価とは異なる部分がありましても、ご了承いただけましたら幸いです。

 

1人目:畑隆幸投手(小倉高校)

 

(左)畑隆幸投手。(右)西鉄ライオンズに同期入団した稲尾和久投手。
稲尾投手は三原監督から「バッディングピッチャーで獲得した」と、今では信じられないほど評価が低かった。

 

1954年の春から4回連続甲子園に出場。
この当時、後にプロ野球でも球史に残る名選手たちと激闘を演じることになります。
1954年の夏の1回戦では、後にプロ入りした早稲田実業の榎本喜八選手※に敗れ、翌年の夏の2回戦では、後述する前岡勤也投手(新宮高校)に完封負けを喫します。
※毎日/大毎/東京、現在のロッテマリーンズ:1000本安打、2000本安打の最年少記録保持

 

甲子園に春夏2年連続で出場した畑投手は、人気、実力とも左腕No.1投手として評価も高かったため、好条件でプロ入りします。

 

後に同期として西鉄ライオンズに入団する稲尾和久投手(別府緑ヶ丘高校:シーズン最多勝利42勝や3年連続30勝以上など)が、契約金50万円・月給3万5000円で入団しました。

それに対し、甲子園春夏の常連、かつ、春の選抜大会で準優勝の実績を持つ畑投手は、契約金800万円・月給15万円という高い評価でした(しかし、その後は、稲尾投手との差は大きく開きます)。

 

 

2人目:前岡勤也投手(新宮高校)

 

前岡勤也投手(新宮高校)

 

1955年当時、「甲子園強豪」と言われたのは『大明神』と異名がついた、坂崎一彦選手率いる浪華商業高校でした。
その強打者である坂崎選手をしても歯が立たなかった剛球左腕が、前岡勤也投手(新宮高校)でした。

ホップする直球を持ち、低めを突くと、その球の回転で地面から「砂塵が舞った」という伝説が伝わるのは、この前岡投手と、浪商の怪童:尾崎行雄投手だけでした。

 

彼の名を成さしめたのは、2年生の夏、準々決勝で北の強豪:北海高校相手に戦後最長(当時)となる延長17回を投げ抜き、1対0で勝利。
全国に知れ渡ります。
しかしながら、打線の援護がなく、この年優勝する中京商業高校に敗退しますが、随所に大器の片鱗を見せつけました。

 

高校球界を沸かせたスターということで、卒業後は数球団が獲得競争をしますが、破格の契約金で大阪タイガース(現・阪神タイガース)に入団します。

投球フォームが、同じ和歌山県出身の『伝説の大投手』:嶋清一投手(海草中:甲子園で2試合連続ノーヒット・ノーラン、45イニング無失点など)ばりの回転重視の特殊な投球フォームだったため、指導者毎に矯正されるうちにフォームを崩し、プロでは1勝で終わりました。

 

 

3人目:松本正志投手(東洋大姫路高校)

 

松本正志投手(東洋大姫路高校)

 

1977年、夏の甲子園優勝投手。
直球1本で打者を抑えられる剛球投手で「江夏※二世」といわれました。
※ 江夏豊投手;阪神タイガースに入団し、日本記録であるシーズン401奪三振、最優秀救援投手5回などを記録。オールスター9連続三振等のエピソードを多く持つ

 

「三振か四球か」という荒球でしたが、この大会では制球も安定していました。
決勝までは、

1回戦 東洋大姫路 4-0 千葉商
2回戦 東洋大姫路 5-0 浜田
3回戦 東洋大姫路 8-3 豊見城
準決勝 東洋大姫路 1-0 今治西(延長10回)

と豊見城戦以外は、完封勝利と順調に決勝戦へと向かいます。

 

決勝は1年生である坂本佳一投手を擁する東邦高校でした。
試合は劇的な勝利で終わります。
1-1での延長戦での10回裏、サヨナラ3ランで決着します。

 

私、木下は、その後の松本投手のインタビューで
「1年生に負けるわけにはいかない」と発言しているのを記憶しています。
負けた坂本投手は「バンビ」とあだ名され「悲劇のヒーロー」と人気も上がりましたが、甲子園出場はこの年だけになります。

松本投手はその年のドラフト1位で阪急ブレーブスに入団しますが、10年間で1勝と活躍はできませんでした(1987年の引退後、用具係として今でもオリックス・バファローズの選手たちを裏方で支えています)。

 

 

次点;伊藤久敏投手(久留米商業高校)

 

伊藤久敏投手(久留米商業高校)

 

1962年の夏の甲子園は、春の選抜で八木沢荘六投手を擁した作新学院高校が夏の甲子園に出場し、作新学院高校は、史上初の「春夏連覇」の期待も多く寄せられました。
しかし、大会前、八木沢投手は赤痢に罹患し出場ができなくなり、作新学院高校は、控え投手(主にリリーフ)であった加藤斌投手を先発にして大会に臨みました。

 

 

左が八木沢投手、右が加藤投手(作新学院高校)

 

 

伊藤投手は、その作新学院高校と決勝戦で対戦します。
伊藤投手はこの大会絶好調で、

1回戦 久留米商業 5-0 静岡市立
2回戦 久留米商業 2-0 高岡商業
3回戦 久留米商業 4-2 北海
準決勝 久留米商業 3-0 西条

と4試合中3試合、完封勝利を成し遂げます。

 

そして決勝戦、作新学院打線を散発7安打に抑えるも、味方打線は加藤投手の前に5安打しか打てず、1-0で惜敗します。
作新学院高校は、春夏甲子園大会での史上初めて「春夏連覇」を成し遂げた高校として歴史に刻まれます。

ちなみに現在、春夏連覇は通算8回達成されています。
これまでに7校が達成、そのうち大阪桐蔭は2回達成しています。

 

余談ではありますが、加藤斌投手は卒業後、プロ入り(中日ドラゴンズ)しますが、当時はドラフト制度がなく自由競争でした。
ドラゴンズは、当時コーチだった土屋弘光と加藤投手の姉を見合いをさせて、加藤投手にも接近します。
そして、見事見合いを成功させ、加藤投手も本命の読売を蹴ってドラゴンズ入りをします。

 

前途有望でした(2シーズンで3勝)が、プロ入り2年後のオフシーズン中、故郷の今市市(現日光市)に帰郷している間、交通事故でその若い命を散らします。
享年20才でした。

 

その春夏史上初の連覇高;作新学院高校の加藤斌投手と投げ合った、左腕の伊藤久敏投手を、独断ではありますが、次点とさせていただきました。

 

***

この記事を書いている8月11日時点で、高校球児たちは地方大会、あるいは春の選抜高校が甲子園でトーナメント試合を行っています。

 

彼らの人生の中で、この夏の一瞬、一瞬が人生の糧になってくれれば嬉しい限りです。
この夏も多くの人たちの支えがあって、実現しましたね。
感謝を忘れず、今後の人生に幸あらんことを。

 

本日はここまで。
ありがとうございました!!!

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