皆さんこんにちは!
木下馨です。
まだまだ寒い日が続きますね。
こんな寒い2月ですが、寒い時期にも大きな事故が起こります。
前回、前々回もそんな自然との戦いのお話をさせていただきました。
前回はこちら
前々回はこちら
しかしながら、「極寒の地」という状況でなくても、「防げる事故、悲劇」も多く存在します。
いわゆる「人災」と呼べるものですね。
今回はその中でも1958年2月6日に起こった、いわゆる「ミュンヘンの悲劇」についてお話ししましょう。
サッカーの好きな方々ならご存知の「名門」と言われる「マンチェスター・ユナイテッド」に起こった悲劇です。
彼らはユーゴスラビアからの帰路、給油のためにミュンヘンに立ち寄ります。
英国欧州航空(BEA)のチャーター機(エアスピード・アンバサダー機)は航続距離が短く、ユーゴスラビアの強豪チーム:レッドスター・ベオグラードと対戦した翌日、ミュンヘン経由でマンチェスターへ飛び立つはずでした。
給油後、2度離陸を試みますが、離陸速度が上がらずうまくいきません。
3度目の離陸を試みますが離陸速度に達せず、フェンスを突き破り、空き家に突っ込み炎上しました。
乗員乗客44名のうち、23名が死亡、うちユナイテッドの選手が8名、クラブ関係者が3名いました。
原因は当初、翼に付着した氷を確認せず、無理やり飛行したとしてジェームス・セイン機長の安全確認不足とされました。
ところが後になって、空港の滑走路の氷雪がシャーベット状になって、航空機のスピードが出なかったためと認定されました。
しかしながらその評定が出るまで11年の時間を要しました。
ジェームス・セインは事故後、解雇され、心臓発作によって54歳で亡くなるまで操縦桿を握ることはありませんでした。
当時のマンチェスター・ユナイテッドは、「バスビー・ベイブス」(Busby Babes, バスビーの子どもたち)と呼ばれていました。
監督のサー・マット・バスビーは、1956年、57年とリーグ優勝をしました。
最強と言われている最中、上記の事故が1958年におきました。
バスビー自身も大怪我をしましたが、その年の8月に復帰します。
そして、5年後の1963年には、生き残りの選手と新たな選手を加え、FAカップで見事に優勝を遂げます。1965年と67年にはリーグ優勝を果たして完全復活すると、1967−68シーズンのチャンピオンズカップでは歓喜の瞬間が訪れます。
ウェンブリーで行われた決勝戦でベンフィカと対戦したユナイテッドは、延長戦の末に4−1で勝利し、欧州王者に輝いたのでした。
それはミュンヘンの悲劇が起きてちょうど10年にあたる年であり、クラブとしてもバスビー個人としても、最高の形で犠牲者を追悼することができたと言えるのではないでしょうか。
事故の話に戻ると、今ではどの空港でも行われている「氷雪除去」がミュンヘンでは行われなかったことが原因でした。
大きな事故が起こらなければ、いろいろなルールや対策ができてこなかったのも人類の歴史では事実なことでしょう。
どんなに機械やシステムが発達しても「ヒューマンエラー」は起こるものです。
それは何も飛行機に限りません。
毎日車を運転していても、電車&列車に乗っていても、あるいは船、そして飛行機に乗っていても起こる可能性はありますね。
一番してはいけないのは「隠蔽」であると言えましょう。
上記のミュンヘン、つまりドイツ側も初めは隠蔽と言える対応でした。
氷雪が原因ならその滑走路を放置した、西ドイツ(当時は西と東に分割されていました)政府の責任になるからです。
実は、毎日の「ビジネス」でも事実から目をそらすのは、同じ失敗を繰り返す結果になるかもしれません。
「失敗から学ぶ」と言うのは、時としてコストが高くつくこともありますし、その決断には勇気も必要かも知れません。
今でこそ大きな成功をしている会社でも「失敗から学ぶ」ことで支持されている会社も多いでしょう。
Apple然り、マイクロソフト然り、トヨタやパナソニック、SONYでもそうでしょう。
我々は、あらゆる歴史の出来事から「なぜ失敗したのか」、また、運悪く失敗をしてしまった場合、どうしたら「復活」したかのヒントを得られる可能性はあるのではないでしょうか。
本日はここまで!
ありがとうございました!!