皆さん今日は!
木下馨です。
立て込んでいる状況にかまけ、投稿が久しぶりになりましたことお許しください。
今回から何回かに分けて「8月1日」と言われると木下が「この日は忘れてはならない」という日をお知らせしていこうと思います。
皆さんはポーランドという国をどこまでご存知でしょうか?
ある方は、ヨーロッパの一小国くらいしか思えないかもしれません。
またある方は労働組合「連帯」のワレサ議長を思い出す方もいるかもしれません。
木下の印象は
「粘り強く決してあきらめないド根性国家」
となります。
ここから数回に分けて、そのド根性ぶりを紹介していきましょう!
1944年8月1日
1944年8月1日。
当時ナチスドイツに占領されていたポーランドでは、ポーランド国内軍という市民軍が首都ワルシャワで「武装蜂起」を起こしました。
ドイツ軍はたちまち危機的状況に陥ります。
ここで当時の戦況を時系列的に見ていきましょう。
すでに6月22日から開始されたソ連軍の「バグラチオン作戦※1」がドイツ中央軍集団を「スチームローラー」の如く壊滅させていました。
ソ連軍は、約200個師団、総兵力250万以上、戦車&装甲車両5、200、野砲&迫撃砲45,000門、航空機6、000機という戦力を伴って。
実は、6月22日は3年前のその日、ドイツ軍がソ連に侵攻した日でした。
日付といい、戦力といい、ソ連を率いていたスターリンの腹の中が垣間見えるようです。
ソ連の圧倒的な戦力の下、あっという間にドイツ軍40万名が死傷または行方不明になります。
つまり、8月1日の当時、ワルシャワ蜂起をしかけたポーランド国内軍50,000名に対し、鎮圧できるドイツ軍の戦闘部隊は約1,000名しかいない状態でした。
なおかつ、ソ連軍はワルシャワから10kmのところまで進攻してきました。
これを聞き及んだ国内軍は、「今だ!」とばかりに蜂起を決意したのです。
8月1日17時をもって、国内軍司令官;コモロフスキ少将は武装蜂起の命令を下します。
彼らは楽観的でした。
ソ連軍はすぐそこまで来ていて、国内軍の武装蜂起を奨励していました。
また、ドイツ軍はすでに弱り切っており、敗残兵の掃討戦があるぐらいだろうと考えていました。
※1【バグラチオン作戦】独ソ戦開始から、ちょうど3年目にあたる、1944年6月22日にベラルーシで開始された、赤軍のドイツ軍に対する攻勢作戦の名称。この作戦の結果、ドイツ中央軍集団は回復不可能な大打撃を受け、戦線は大きく西に押し戻されることになり、ほぼポーランドまで移動した。短期間で空前の規模の戦死者を出したとしてギネスブックに記載されるほど、苛烈な戦いだった。出典:ウィキペディア
ドイツ軍の反撃
しかしながら、ドイツ側の対応は素早かったのです。
第一にソ連軍の補給戦は伸び切っており、新たな攻撃をするまで時間が必要だったこと。
ドイツ軍の反撃攻撃で戦線が膠着したことが挙げられます。
7月20日に起こった「ヒトラー暗殺事件」直後であったので、ヒトラーはドイツ国防軍を信用せず、鎮圧の指令を悪名高いヒムラー親衛隊長官に下令します。
ヒムラーはフォン・デム・バッハS S※2大将を最高司令官に任命します。
バッハ大将は緊急出動可能な部隊を「掻き集め」ます。
ドイツ軍戦車師団の一部も展開していましたが、主力となったのは、
・SS警察部隊
・反共主義ロシア人義勇兵部隊(カミンスキー旅団)
・犯罪者や囚人部隊(ディレルバンカー特別連隊)
・アゼルバイジャン部隊
・ウクライナ義勇兵
・コサック兵
など多種多様な部隊が集められました。
ドイツ軍の攻撃は激しい国内軍の反撃に晒されます。
攻撃初日、ドイツ側は約1kmしか進めませんでした。
しかしそれには理由があり、上記のドイツ側は本来の戦闘ではなく、一般市民への略奪や暴行、破壊にその時間を費やします。
ドイツ側の初日の損害は戦死6名、負傷24名。
国内軍と市民の犠牲者は約10,000人に達しました。
※2【SS】親衛隊の略。ドイツの政党、国家社会主義ドイツ労働者等の組織のこと。
スターリンの思惑
この悲劇が繰り返されている中、ソ連軍の動きは鈍いものでした。
1944年8月当時、ソ連の指導者スターリンはすでに「戦後処理」を考えていました。
つまり「共産政権樹立」です。
当時の国内軍は、イギリスのポーランド亡命政府の指示で活動していました。
スターリンは、ドイツ軍により国内軍が駆逐されるのを黙認していました。
大国の思惑によって運命が左右される小国の悲劇がここでも繰り返されました。
また、狡猾かつ巧妙なやり方で、さもソ連軍が国内軍を援護しているかのポーズを見せます。
ポーランド人部隊のポーランド第一軍を、ヴィッスラ河西岸で渡河攻撃を行わせます。
しかし、ソ連軍の援護は全くなしでした。
ポーランド人部隊は同胞のために必死に闘いますが、約2,000名を失って撃退されます。
また、イギリス軍が「国内軍や市民のために、武器弾薬や物資を航空機で空中投下をしたい」と申し出ても、スターリンは理由をこじつけて拒否し続けました。
当時の航空機ではイギリスからワルシャワまで往復の飛行はできず、物資を投下してもイギリスには戻れません。
イギリスはソ連領内の飛行場での着陸が必須でしたが、これを拒否したわけです。
スターリンの目的は明白となりました。
ドイツ軍に、英国政府とポーランド亡命政府の息のかかった国内軍を殲滅させることです。
ヒトラーもこのソ連軍の動きを察します。
バッハ大将にワルシャワの「完全なる破壊」を命令します。
終焉
もはや、国内軍には降伏する以外の道は残されていなかったのです。
1944年10月3日。
63日間に渡って粗末な武器と弾薬で抵抗してきた戦闘は、ドイツ軍に降伏し終焉を迎えました。
しかし、その国内軍の勇気と粘り強さは称賛に値します。
国内軍の捕虜は約9,700名、負傷者は6,000名を数えますが、約3,500名は地下水道などを通って郊外に脱出します。
市民の犠牲は今もってはっきりしないようです。
ワルシャワは当時約95万名の市民が住んでいたと推測されますが、15万〜20万名が約60日の戦闘で犠牲になったとされています。
国内軍の戦死・行方不明者、約16,000名
負傷者、約600名
ドイツ側の戦死・行方不明者、約2,000名
負傷者、約9,000名
国内軍の負傷者が極度に少ないのは、その苛烈な戦闘や蛮行の結果と言えるでしょう。
こうして味方だと思った側からも裏切られたポーランドですが、多くの犠牲を払っても尚、彼らは決して諦めることなく、立ち上がります。
ソ連軍がワルシャワを解放するのは、3ヶ月後の1945年1月17日になってからです。
その日、ポーランド国民解放委員会「ルブリン委員会」なる占領後の共産党支配を目指す政権母体も、一緒にワルシャワに入城します。
長きに渡った共産党一党独裁でしたが、ポーランド国民は諦めません。
その日はやってきます。
ポーランド国内軍が目指したリベラルな議会制民主政治が実現するのは、ポーランド統一労働党が敗北を喫して、自由化の幕開けとなった44年後の1989年6月の総選挙でした。
今日はこのへんで!
次回は、後編をお送りします。