4月19日はユダヤ人にとって忘れられない日〜第二次世界大戦下のポーランド後編〜

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

皆さんこんにちは!
木下馨です。

 

前回は、ポーランドと8月1日について書かせていただきました。
前編はこちら
↓↓↓↓↓
8月1日はポーランド人にとって忘れられない日〜第二次世界大戦下のポーランド前編〜

後半も少し専門的になりますが、お付き合いください。

 

日本人には「ワルシャワ蜂起」と聞いても歴史に興味がある方は別にしても、あまり知名度はないかもしれません。
それが証拠に、1943年4月18日に起きた「ワルシャワ・ゲットー蜂起」と時に混同されることがあります。

 

1944年のワルシャワ蜂起は、ポーランド人が自分たちの領土を取り戻すためのテンペスト作戦の一部としての蜂起でした。
1943年のワルシャワ・ゲットー蜂起は、ポーランドのゲットーに住んでいたユダヤ人が、自分たちの存命をかけて起こした蜂起でした。

 

今回は、このワルシャワ・ゲットー蜂起をみていきましょう。

 

 

ユダヤ人殲滅作戦から立ち上がれ

 

ワルシャワ・ゲットー蜂起は、当時ナチス・ドイツが推し進める「ユダヤ人絶滅計画」いわゆる「ラインハルト作戦」中に起きたユダヤ人の蜂起です。
ゲットーに詰め込まれてしまったユダヤ人は、順次、強制収容所に送られて死を待つのみという過酷な運命が待っていました。
ゲットーのユダヤ人青年、モルデハイ・アニエレヴィッツは、「座して死を待つより戦おう」と、一縷の望みを掛けて最後まで戦うことを訴えかけ、立ち上がりました。
それがワルシャワ・ゲットー蜂起の始まりです。

 

ゲットーに閉じ込められたユダヤ人は約45万人。
劣悪な環境の中、伝染病や飢餓で約8万人以上が死亡しました。

 

当時、ポーランドには多くの「ユダヤ人絶滅収容所」が存在していました。
なぜ一国にそれほどまでの数の収容所があったのでしょうか?
それはポーランドという国の立地条件に要因がありました。
ポーランドは、当時ナチスが占領していた西側諸国からも、占領地区&枢軸国の各国(イタリア、ハンガリー、ソ連占領地区など)からも鉄道路線で集結しやすかったことが挙げられます。

※ ベウジェツ強制収容所、ソビボル強制収容所、トレブリンカ強制収容所そしてアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所など

 

ゲットーから、これら収容所には30万人以上がすでに輸送されていました。

 

結果、当時ゲットーには5万人以上の市民がおりましたが、戦闘要員は750人程度でした。
これはわずかな武器(拳銃、手榴弾、わずかな小銃、機関銃と弾薬、火炎瓶など)を考えれば、それだけの人数分しか行き渡らなかったというのが現実でした。

 

 

4月19日の勝利

 

蜂起の鎮圧には、ワルシャワの親衛隊司令官であったフランケネック准将がその任にあたりました。
彼は、全くゲットー鎮圧を甘く見ていました。
さしたる抵抗などないと踏んでいましたが、思わぬ反撃を受けます。

 

火炎瓶で戦闘車両は擱座し、機関銃でドイツ軍部隊は潰走します。
これはドイツの圧政に対して、ユダヤ人が初めて武器を持って抵抗した歴史ある日になりました。
のちにイスラエル建国に向けての基礎になったと言っても過言ではないでしょう。

※ 擱座(かくざ):戦車や車両が壊れて動けなくなること。船が座礁すること。

 

しかしながら、ユダヤ戦闘組織の勝利はこの日だけとなります。
失態を演じたフランケネックは解任され、新しい鎮圧部隊司令官にユルゲン・シュトロープ親衛隊少将が着任します。
シュトロープは高射砲や曲射砲を配備し、徹底した破壊を命じます。

 

ゲットーの外からの支援は限られたものでした。
前半で述べたポーランド国内軍からの支援はなかったわけではないですが、国内軍側も支援は来るべきワルシャワ蜂起に向けての準備もしなくてはならず、多くはできなかったのが実情でしょう。

 

 

さらなる悲劇

 

シュトロープは徹底した破壊の後、多数を絶滅収容所に送り、5月16日には「もはやワルシャワ・ゲットーは存在せず」との報告を行っています。
ゲットーの跡地には「ワルシャワ強制収容所」を設置し、破壊されたゲットー内の建物の後始末を、ワルシャワ強制収容所に送りこんだユダヤ人にさせています。

 

鎮圧された際に、数十名のユダヤ人は地下水道を通って脱出しました。
しかしながら、ユダヤ人を匿ったり、支援したりするポーランド人がいる一方、密告をするポーランド人もおり、多くは捕まり収容所に送られました。

 

多くの方はナチスだけが、ユダヤ人を迫害したと思ってないでしょうか?

 

ユダヤ人への差別、迫害はどの時代でも存在しています。
ポーランドは東欧では珍しい、ローマンカトリックの国です。
(西ローマ帝国の東側。ポーランドのほかルーマニアなど。ルーマニアはラテン語で「ローマ人の国」という意味です)

 

ポーランド人の92%はカトリック教徒です。
ローマ法王;パウロ2世もポーランド人です。

 

1991年、当時のポーランド;ワレサ大統領は、国交を締結したイスラエルを訪れ、ポーランド人の中にも反ユダヤ主義があったことを認め、国会で謝罪しました。

 

1930年代から排斥運動はありましたが、反ユダヤで有名な事件は1941年に起きた、ポグロム(大虐殺)「イェドヴァブネ事件」でしょう。
この事件では、ポーランド人の集団が、約300人のユダヤ人を納屋に閉じ込め、ドイツ兵の目の前でそれに火をつけたのでした。
ドイツ側の関与は今もってはっきりしませんが、ポーランド人が少なくても関与したことは公式に認められています。

 

 

アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所

 

「ホロコースト」(ユダヤ人絶滅政策)の象徴といわれるこの収容所は、ポーランドの首都;ワルシャワ中央駅からクラクフ駅まで2時間半、そこからはバスでの移動が普通です。

 

2019年に訪れたアウシュヴィッツ=ビルケナウ第二収容所。当時はユダヤ人を満載した貨物列車が収容所の中まで入線していました。

 

私は、2019年の11月にここを訪れました。

ワルシャワゲットーの場所は今では集合住宅も多い住宅街になっています。
その一角に「ゲットー蜂起」のモニュメントがあります。

 

ポーランドを訪れたら、人として、いや人間として必ず見ておかなくてはいけないと強く思い訪れました。
ですので、日本語のできるポーランド人ガイドさんを手配いただき(ワルシャワ大学はじめ、いくつかの大学には日本語学科があります)、ここを訪れました。
書面の都合で全てを書くことはできませんが、機会があれば必ず見ておくことが人としての努めではないかと思いました。

当日もイスラエルからの修学旅行生が多数見学ツアーを行っていました。
イスラエルでは必ず修学旅行にこの地を訪れるとのことです。

 

第二収容所からシャトルバスで15分くらいの場所にある「第一収容所」
入り口には世界的知られている「ARBEIT MACHT FREI (働けば自由になる)」というスローガンが書かれています。実際は死ななければ自由にはなれなかったのですが。

 

人間はまさに、天使にも悪魔以上にもなれるものだと思いました。
我々は加害者にも被害者にもなる可能性があるかもしれません。
多様性、と言葉で言うのは簡単ですが、お互いの「違い」を認めるのは思った以上に大変なことかもしれません。

 

しかしながら、我々は一人では生きていくことはできません。
お互いの「違い」を認めあい、共栄共存できることは困難なことかもしれませんが、身近なところからそれを認めあう社会にしていこうとの思いが見学した後の強い感想でした。

 

本日はここまで。

 

次回は、前編&後編でお話しした内容の映画の名作がいくつかあります。
それを独断ですがご紹介したいと思います。

 

また、お会いしましょう!

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

SNSでもご購読できます。