「雪中の奇跡」〜ソ連・フィンランド戦争【中編】

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皆さん、こんにちは!
木下馨です。

 

前回は、ソ・芬戦争【前編】をお送りしました。
前回はこちら
「雪中の奇跡」〜ソ連・フィンランド戦争【前編】

 

今回は【中編】となります。
では、その後どうなったかを『雪中の奇跡』を紐解きながらみていきましょう。

 

 

兵も装備もソ連の半分以下だったフィンランド軍

前編にもお話しした通り、当時のソ連の人口は1億7千万人、対するフィンランドは総人口三百七十万人。

 

ソ連軍はフィンランド侵攻に対して、兵員数45万人を動員します。
装備については次の数量を投入しました。
・各種大砲1900門
・戦車2400両
・航空機670機

 

これに対してフィンランド軍は、19万人に動員をかけますが、その装備は非常に貧弱でした。
・対戦車砲120門
・機関銃4500丁
・航空機160機

機関銃こそ4500丁ありますが、航空機はソ連の1/4しかなく、その中でも近代的な戦闘機はフォッカーD21が36機だけ、と心細い限りでした。

 

当初、ソ連軍は3日間で戦闘は終わる、と信じていました。
そして兵には外套も支給していませんでした。

 

また、さらに悪いことにソ連軍には雪に慣れていない、南のキルギス、ウズベクスタン、トルクメン、アゼルバイジャン、アルメニア等の兵士が多数含まれていました。

 

対するフィンランド軍の多くの兵士は、人生のおよそ半分をスキーの上で暮らしてきた一流のスキーヤーでした。
また、元々が狩猟民族で射撃もうまく、狙撃に関しては一流でした。

フィンランド軍総司令官:マンネルハイム元帥(中央)

 

フィンランド軍を有利に導いた大寒波

 

ソ連軍が進撃を開始したときは、気候が普段の冬より暖かく、道路が泥濘と化し、湖沼の多いカレリヤ地方では思ったように進撃ができません。
また、年が明けると一気に気温が下がり、大寒波が押し寄せました。

 

暖をとるソ連軍兵士に対し、どこからともなくスキーを自由に使うフィンランド兵士が銃弾の雨を降らせます。
彼らは機関銃の冷却水にグリセリンなどを混ぜて凍結防止をしていましたが、対するソ連軍は銃が凍って打ち返すこともできませんでした。

 

ソ連軍に対して、代表的な攻撃は第四十四機械化狙撃師団への攻撃でした。

 

第四十四機械化狙撃師団の兵力は一万八千名、しかし、唯一の補給路であるラーッテ林道は林道に並行して作られた秘密ルートを使って、ソ連軍の最前線から遥か後方にまで自在に移動するフィンランドスキー部隊によってずたずたに寸断されていた。
フィンランド軍は物資輸送隊と野戦炊事車を集中的に攻撃していた。(中略)

ソ連軍部隊はこの地獄から逃げ出すため道路に殺到した。
馬で牽かれた重砲は恐るべき渋滞の中で身動きがとれなくなり放棄された(中略)

一月六日、遂にソ連第四十四機械化師団のヴィノグラドフ中将は退却を決意した。
彼は各連隊本部に装備機材の破壊を命じ、夜二十一時三十分以降、北方への脱出を開始するよう指示した。
脱出が開始されると間もなくソ連軍部隊はバラバラに分裂してしまったが、その日の真夜中の少し前、幾つかの部隊は北方に血路を開いた。
暗闇の中、フィンランド兵は逃げ出そうとするソ連兵を狙って一晩中射撃を続けた。(「雪中の奇跡」P115-118P)

 

フィンランド軍パトロール隊

 

また、この日の気温はマイナス46度になり、数十年ぶりの最低気温でした。
それは、天幕が不足しているソ連軍にとっては致命的な低温となりました。

 

この脱出戦は恐るべき悲劇に終わった。
暗闇の中、不案内な雪の森の中に走り出したソ連兵の大半は、そのまま二度と森の中から姿を現すことはなかった。
少数がフィンランド軍の捕虜になり、もっと少数の兵だけが脱出に成功し命を長らえることができた。
脱出命令が出た時、ソ連軍の軍医や看護婦たちも負傷者を農家や救急車の中に置き去りにして森の中に走り込んだ。
残された負傷者も、逃げ出した医者や看護婦も大半が凍死した。(「雪中の奇跡」:P119)

 

壊滅したソ連軍戦車

 

ソ連軍の大義なき戦い

 

ソ連軍の被害は異常なほど大きかったのです。

 

捕虜になったソ連兵は比較的少数だった、全部で千五百名。
一方、戦死者は二万三千名とちょっと異常な程多かった。
そのうちの一万七千五百名が第四十四機械化狙撃師団の戦死者であった。(「雪中の奇跡」:P120)

 

「大義なき戦い」というものは大きな犠牲を伴うものかもしれません。
歴史的に見て序盤のソ・芬戦争ではまさにそういう戦いでした。
それを現すエピソードは次の通りになります。

 

捕虜になった第四十四機械化狙撃師団の連隊長だったある大佐はフィンランド軍の尋問に対してゆっくりとした優しい口調で話し始めた。
「この戦争は一体誰のために、特にここでの戦闘は何のために行われたのか?
私がツァーリの将軍達、デニーキンやコルチャーク(木下注:ロシア革命内戦における白軍:帝政派の将軍)と戦っていた時には、その理由がちゃんとわかっていた。
我々は土地は農民のために、そして工場はそこで働く労働者達のためにあるべきだとして戦っていた。
だから我々は勝てたんだ。

(中略)私の部下達はソ連で最も優れた兵士だった。
最も良く訓練され、装備も最高だった。
私の連隊がレニングラード(木下注:現サンクトペテルブルク)の駅で乗車している時、後に残される連中は我々にこう挨拶したものだ。
“フィンランドに行ったって、どうせ君達には何もすることがないだろうよ、ただ道をどんどん進んでいくだけだろ。新年の晩にはオウル(木下注:フィンランド中部の都市)でまた会おう”」(「雪中の奇跡」:P120-121」)

 

しかし、結果は全く正反対になりました。
ソ連軍の威信は地に落ちました。

撃墜されたソ連軍機

 

惨敗したソ連軍将校たちの行く末

 

しかし、指導者達は「敗戦の責任」を現場に押し付けます。
これはどこの国でも同じことが繰り返されます。
太平洋戦争時の日本軍も同じです。
ソ連の指導者はどうしたか。

 

ヴィノグラドフ中将を始め、第六六二狙撃連隊長サーロフ、連隊の政治委員ボドームトフ、第六六二狙撃連隊第Ⅲ大隊長ツァイコフスキー大尉など脱出した指揮官は、敗北の責任を厳しく糾弾され、ソ連軍最高司令部の命令で処刑された。
第一六三狙撃師団長セレンツォフ少将の運命は伝えられていない。
フィンランド軍は三倍の敵と戦って、十倍の損害を与えたのである。
ある米国のジャーナリストはこれを「雪中の奇跡」と呼んだ。(「雪中の奇跡」;P121)

 

世界はフィンランドの善戦を称賛しました。
しかし、フィンランドが欲しているのは、言葉での応援ではなく、戦う武器であり、食料品であり、戦費であり数々の備品でした。

 

しかしながら、世界はナチス・ドイツがポーランド占領後、フランスとイギリスに侵攻するのではないか、ということが重大懸案事項でした。

 

この後、フィンランドの孤軍奮闘はどうなるか。
その話は【後編】にお話していきます。

 

本日はここまで。
またお会いしましょう!

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