みなさん、こんにちは!
木下馨です。
今から115年前の5月27日〜28日、日露戦争の運命を決めた大海戦が、対馬沖で行われました。
ロシア;バルチック艦隊を完膚なきまでに打ち破った※、東郷平八郎司令長官指揮する連合艦隊の活躍は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」や、いくつもの映画にもなり、記憶にある方々も多いことでしょう。
※ バルチック艦隊の司令官は、ロジェストヴェンスキー中将。日本は、21隻撃沈、6隻拿捕。味方の損害は水雷艇3隻のみ。
今回の「Kinopedia」は、その勝利にアルゼンチンという国が関わっている、ということを語りたいと思います。
皆さんはその歴史をご存知でしょうか。
日本とアルゼンチンが国交を結んだのは、1898年(明治31年)、日亜友好通商航海条約によってでした。
皆さんは、アルゼンチンというと何を思い出しますか?
マラドーナやバティストゥータのサッカー、音楽が好きな方はアルゼンチン・タンゴでしょうか。
そのアルゼンチンがどう関わっていたか。
20世紀に入り、日露戦争が避けられない状況になったとき、世界最強のロシア艦隊に対抗するには海軍力の増強が焦眉の急でした。
日露開戦の前年、アルゼンチンは当時イタリアに建造発注した、最新鋭装甲巡洋艦「リバダビア」と「モレノ」をほとんど完成させていました。
その二艦を売却しても良いと日本にオファーを出し、日本は直ぐさま交渉し、これに妥結しました。
これは、当時の「日英同盟」の同盟国・イギリスの働きもあったと言われています。
また、アルゼンチンが日本に示した好意の背景には、結ばれていた日亜友好通商航海条約や、その翌年に訪日して大歓迎を受けた海軍練習艦「サルミエント」のベトペデル艦長が、海軍大臣になっていたことなどがあったと言われています。
二艦は日露開戦の6日後の1904(明治37)年2月16日、国民歓喜の中、横須賀に到着しました。
それぞれ「日進」、「春日」と命名されて、旗艦「三笠」の隷下に入り、日本海海戦では大いに活躍しました。
観戦武官ドメック・ガルシア大佐
前記の装甲巡洋艦「リバダビア」と「モレノ」を、イタリアにおいて日本側に引き渡す際のアルゼンチン側代表は、ドメック・ガルシア海軍大佐です。
大佐はその後、命を受け日本に赴き、日本海海戦において観戦武官として「日進」に乗艦しました。
観戦武官とは、「第三国の戦争を観戦するために派遣される武官」のことで、現代では電子戦や航空機の発達などで、1人では戦闘を見ることができないので消滅しています。
日本海海戦の参謀であった秋山真之大尉も、観戦武官として米西戦争時のサンチャゴ海戦を観戦しています。
ドメック・ガルシア大佐は観戦後、日本に残り、膨大な報告書を本国に提出しました。
この報告書は80年の歳月を経て海上自衛隊の教育用資料として邦訳され、更に、日亜修好100周年を記念して1998年に、日本アルゼンチン協会から「アルゼンティン海戦武官の記録」として公刊されました。
大佐は1932-38年には海軍大臣となり、退役後はアルゼンチン日本文化協会の会長として両国友好に余生を尽くしました。
どうですか?
地球の裏側にある、アルゼンチンという国の印象は少しは変わったでしょうか。
アルゼンチンは親日国の一つでもあり、また文化と教養の国であることもわかります。
ノーベル賞受賞者を5名輩出していますし、「世界の三大劇場」(パリのオペラ座、ミラノのスカラ座、ブエノス・アイレスのテアトロ・コロン)も。
行きたかった国のポーランドは去年訪れました。
アルゼンチンは、世の中が落ち着いたら必ず私も訪れたい国の一つです。
本日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございました!