歴史

人類によって絶滅を早められた動物シリーズー北極ペンギン編ー

皆さん、こんにちは!
木下馨です。
今回もKinoPediaにお付き合いください。

 

今回から3回に分けて『人類によって絶滅を早められた動物』を紹介したいと思います。

では、第1回目です。

 

近年、「地球温暖化」が問題になっていますね。
地球環境が人類によって破壊されていることが、皆さんもご存知のように問題なわけですね。

 

しかしながら、地球の長い歴史を見れば、地上を支配していた「生物」は恐竜の時代もあり、常に「温暖化」と「氷河期」を繰り返してきたこともまた、事実ですね。
そして「地上を支配」した種も変遷していきました。

 

 

人類が加速させているもの

 

その時代によって絶滅してしまった生物は、数しれないほどですが、キリスト誕生前後から現代まで「人類の進歩」の弊害によって絶滅した動物の数もまた多くなって来ています。
長い地球の歴史で起きてきた自然環境の劇的変化、ではなく「人類」のために絶滅を迎えた種が増えた、と言うことでしょうか。

 

今回は、そんな「絶滅してしまった動物」を取り上げて見たいと思います。

 

 

オオウミガラス

 

北極ペンギンと言われたオオウミガラス

 

かつて北極海を中心に、数百万羽はいたとされる海鳥でした。
元々、「ペンギン」と言う呼称はこのオオウミガラスのことでして、南極のそれは「南極ペンギン」と呼ばれてたわけですが、今となっては南極のペンギンだけになってしまいました。

 

ではなぜ、北極のペンギンは絶滅し、南極のそれは繁殖しているのでしょうか?

 

歴史を見ていきましょう。
少なくても8世紀くらいからは食用や羽毛の活用のため、捕獲が始まっていたようです。
当時はまさにヨーロッパの時代です。
1492年にコロンブスが新大陸を発見した15世紀前後から、人類は「大航海時代」に入っていきました。
そして「探検&冒険」の時代に突入していきます。

 

となると、船の人員のため、食糧やランプに使用する燃料他、多くの物が必要になります。
なんせ、動力エンジンが開発される産業革命はまだまだ先の話です。
今と違い、冷蔵庫もありません。
したがって、新鮮な野菜、果物はすぐに腐ってしまいます。

 

この中世の時代、船員はビタミン不足による壊血病で苦しみます。
一説では、この壊血病で亡くなった船員は、15世紀から18世紀までに200万人はいた、と言われています。

 

ペニシリンなどの抗生物質の開発は第二次大戦時ですから、感染症や敗血症などあらゆる危険と隣り合わせだったわけです。

 

そして食料です。
保存方法も今のような冷凍・冷蔵技術などもなかったわけで、堅パン、肉は樽に塩漬けにする、そしてチーズやワイン(ビールより持ちが良かったとか)と言う当時の一般的な保存食料をストックしていました。
ただし、現代より保存期間は短いわけですから途中で補給する必要が生じるわけです。

 

オオウミガラスの悲劇は、「食用に合う」肉だったことでした。

 

16世期にフランスの探検家:ジャック・カルティエがニューファンドランド島で1日だけで、1000羽のオオウミガラスを殺したとされ、2隻の船にその屍がいっぱいになったと伝えられています。
それ以降、ヨーロッパからの狩猟者が肉と卵、そして羽毛を求めて乱獲を続けました。

 

オオウミガラスはそもそも飛べない鳥でしたし、人間を恐怖と思わず興味本位に自ら寄ってきて容易に撲殺されたようです。
その乱獲の目的は、食糧、羽毛、そして美味とされた卵でした。
人間は、ハトやカラスのように無尽蔵にいると勘違いしました。

 

オオウミガラスの卵。先が尖って急な岩礁でも転がりにくい構造に

 

 

そもそも年に一回、そして一個しか卵を生まないオオウミガラスは繁殖力が弱い生き物でしたが、当時はその事実について全く認識されていませんでした。

 

 

さらなる悲劇が襲う

 

数が少なくなったオオウミガラスにさらなる悲劇が襲います。
1820年には、オオウミガラスの繁殖地は、アイスランド沖の人が近づくことができないウミガラス岩礁だけになってしまいました。
そして、10年後の1830年、海底火山の爆発と地震によって岩礁が海底に沈んでしまったのです。

 

生き残った50羽ほどが近くの岩礁に移り住んだのですが、ここでまた「人間の欲」が彼らを絶滅へと追いやります。

 

絶滅寸前のオオウミガラスを所有したいという欲に駆られた収集家や博物館は、展示剥製にするために手に入れようとする動きを見せました。
すると、今が稼ぎどきと言わんばかりに群がる人が増え、オオウミガラスは高値で取引される材料になったのです。

 

自然史博物館でのオオウミガラスの剥製

 

 

狩猟者は危険を顧みず、「一攫千金」を狙って、残り少ない彼らを狩っていきます。
そして、1844年6月に、最後のつがいと卵が狩られ、それ以降の目撃情報が全くなくなり、今もなお、絶滅したと考えられています。

 

 

この教訓は「例えどんなに数がいても闇に殺せばあっけなく絶滅する」と言うことですが、この後もこの悲劇は繰り返されます。
このお話はまた後日。

 

最後に。
南極ペンギンはなぜ絶滅しなかったか?

 

結局、食用として適さず、つまり「不味かった」と言えるのではないでしょうか。
「まさか!」と思われる方もいると思いますが、次回も繋がるお話になりますので、お楽しみに!

 

本日は、ここまで。
またお会いしましょう!!!

映画『八甲田山』にみるリーダーシップとは

皆さんこんにちは!
木下馨です。

 

前回は、南極極点に到達するため、選抜隊を編成したアムンセン隊とスコット隊の話題を上げました。

前回はこちらから

人類初の南極点到達から見るリーダーシップ

 

今回は、「極寒の中での遭難」日本版を見て、リーダーのあり方を考えてみましょう。
日本で有名なのは、「八甲田雪中行軍遭難事件」というものでしょう。

 

 

 

雪中行軍の背景

 

 

1902年(明治35年1月)、風雲急を告げる対ロシアとの戦いを前に、青森歩兵第5連隊と弘前歩兵第31連隊の両隊にとって、冬季訓練は欠かせないものでした。
そして、もしロシアが攻勢に出て宗谷海峡を支配下に治め、青森の海岸沿いが占領された場合、陸路で物資を運搬することも想定しての訓練でもありました。

 

映画『八甲田山〜死の彷徨』では2つの部隊に命令が下る場面がありますが、実際は全く別々に計画されたものでした。

 

冬の八甲田

 

青森歩兵第五連隊(以下五連隊)は、210名中199名が死亡し、雪山の遭難としては未曾有の死者数になります。
これに対して、弘前歩兵31連隊(以下31連隊)は、新聞記者1名を加えた38名全員が冬の八甲田を無事に踏破しました。

 

この事故の原因を見ていきましょう。
そこには、どんな時代でも通じる「リーダーのあり方」が垣間見られます。

 

 

1)31連隊は、「雪中行軍に関する服装、行軍方法等」、3年がかりで訓練してきた総決算でした。
つまり、計画&準備がしっかりできていました。
総延長約224kmを、11泊12日の予定で踏破しようという計画です。
到着するであろう予定の村々や役場に事前に連絡し、食糧や宿泊施設、寝具などの用意を怠りませんでした。

 

また、当時の装備は現代のような、「ダウンコート」も「ゴアテックス」素材のコートもありませんし、下着に「ヒートテック」もありません。
どんな装備かと言えば、彼らが準備したのは軍足を3枚重ね、凍傷防止に唐辛子をまぶし、油紙で包む、というものです。
もちろん、交換用の軍手、軍足は持参しました。
そして行軍中は全員を縄で結び一列で行軍をしました。

 

 

2)5連隊の指揮は神成大尉(映画では神田大尉)が取り、任命されたのはなんと、行軍の約3週間前でした。
31連隊の計画では、駐屯地から青森、青森から田代温泉間の雪中行軍の約20kmを一泊二日の行程で行うというものでした。

 

210名の大部隊でしたが、兵の多くは宮城県や岩手県の農家の出身者が多く、極寒の山中の冬を経験したものは少なかったのです。
また、神成大尉は少なくても将校になってからは雪中行軍の経験もなく、他の将校も半分は雪国出身ではありませんでした。
つまり、「雪の怖さ」を知るものが少なく、準備も万全ではありませんでした。

 

また、運悪く予備雪中行軍を行った時は晴天に恵まれ、距離も20kmの行軍という実際の約1/10の距離でした。
加えて前日には、「壮行会」と称して夜遅くまで宴が催されました。
さらに、予備の軍手、軍足を持つものは皆無で、「田代温泉で一泊」的な今でいうトレッキング気分であったと推測されます。

 

雪中行軍隊の両指揮官

 

 

困難な時のリーダーの判断

 

 

状況判断の甘さが、「全員帰還」と「大量遭難」の差となりました。
5連隊は神成大尉が指揮を執っていたわけですが、映画でも描かれていますが、山口少佐(映画では山田少佐)との意思疎通の不一致と指揮権の混乱があったことが多くの混乱を呼びました。
また、軍の威信をかけて地元民の道案内を全て断っています。

 

しかし、現場での混乱以前の問題として、準備段階から全て見通しが甘かったと言えるでしょう。
それは一事が万事と言えるが如く、装備、食糧準備、編成の何から何まで、全てに言えたことですが、「冬山の準備」を一兵卒まで徹底して行うべきでした。
緊張感のない緩んだ空気をそのままにすること自体、リーダーとして失格かと思います。

 

青森第5連隊

 

青森5連隊の生存者11名。多くの者は凍傷で両手、両足を切断するに至ったが、義手義足での撮影

 

 

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翻って、福島大尉の目的ははっきりしていました。
38名という小部隊の編成について、「この小部隊の何が雪中行軍か?」と一部の上層部から批判がありましたが、「訓練でなく雪中の研究であるから、これで十分」と批判を跳ねつけました。

 

また、福島大尉は編成も地元;青森の人間と体格&体力を考慮して選抜していました。
そして、彼自身、岩木山での雪中行軍を経験していたこと、案内人や宿泊拠点なども確保していたことなども、行軍を成功に導く要因として挙げられます。
「目的は何か」が明確であり、それを達成するための準備に怠りがなかったことが全員無事帰還、という結果になったということでしょう。

 

 

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現代にも通じますが、リーダーの「希望的観測」が多くの過ちを生む可能性は大いにあると思います。

 

「なんとかなる」
「前回うまくいったから今回も」
「過去に経験しているから大丈夫」

 

また、「ここまでやってきた。今少しだからやってみよう」
「社長のお声がかりのプロジェクトだ。なんとか形にしよう」
と現場は思うかもしれません。

 

その時も、「意地」とか「威信」とか「名誉」とかが邪魔をして、判断を誤ることも多くあることでしょう。
この八甲田山や前回のスコット隊のように。

 

いざ、当事者になってみると、「決断」というのは難しいものだと思います。
しかしながら、普段からの「知識」とシミュレーション、経験などを踏まえて訓練していくことが、「より正しい判断」を生む可能性はあると思いますが、いかがでしょうか。

 

本日はここまで。また、お会いしましょう!