世界の政治

ワルシャワの悲劇がわかる映画〜木下馨セレクト5選集〜

皆様こんにちは!
木下馨です。

 

前回と前々回でポーランド;ワルシャワの悲劇をお伝えしました。
前々回はこちら:8月1日はポーランド人にとって忘れられない日〜第二次世界大戦下のポーランド前編〜

前回はこちら:4月19日はユダヤ人にとって忘れられない日〜第二次世界大戦下のポーランド後編〜

 

歴史に興味がある方はともかく、あまり興味がないと「そんなこともあったのですね」くらいで済んでしまうかもしれません。

 

しかしながら、心配は入りません(笑)!
我々は映画を通して、これらの歴史の一旦を見る事が可能ですね。
私の独断ではありますが、これら「歴史の瞬間」に思いを馳せる事ができる映画をいくつか紹介したいと思います。

 

 

『地下水道』(アンジェイ・ワイダ監督:1956年)

 

映画『地下水道』

 

数々の映画賞を受賞しているポーランド人監督であるワイダ監督が、ワルシャワ蜂起を描いた作品。
この映画で「カンヌ映画祭審査員特別賞」を受賞した作品です。

 

アクション映画でもなく、大金をかけた大掛かりな仕掛けがあるわけではありません。
人物描写に重点を置き、そのドキュメンタリータッチの作風とハッピーエンドにはならない終わり方は、ポーランドの重くのしかかった「歴史」を表していると思います。

 

決して明るい映画ではありませんが、時代考証もしっかりした映画になっています。
特に冒頭のシーンで、遠隔操縦式爆薬運搬車「ゴリアテ」が国内軍を攻撃してくるシーンなどは、ポーランド人監督ならではの発想と描写だと思います。
ワイダ監督のメッセージは、ドイツ軍は一般市民攻撃にも容赦無く新兵器を投入してきた、ということかと思います。

 

 

『リベリオン ワルシャワ大攻防戦』(ポーランド作品:2015)

 

未公開映画『リベリオン』

 

この作品は未公開の作品で、DVDのみの作品になります。
やたらアクション色を全面に出した、邦題と表紙になっていますが、ポーランドの若者たちが祖国防衛に立ち上がった高揚感と、のちの絶望感がよく出ている作品と思います。

 

時代考証もしっかり描かれていいます。
例えば、ボルクヴァルド重爆薬運搬車が国内軍によって捕獲され、そのあとの悲劇が描かれている点などです。

 

歴史的には以下のような事実になります。

『大隊グスタフにより車両の火は消し止められ、車両は鹵獲されて後に工兵の調査を受けるため国内軍の陣地に置かれた(中略)熱狂した中隊の兵士と民間人が数百人集まって黒山の人だかりとなり、群衆に取り囲まれながらボルクヴァルド重爆薬運搬車はポトヴァレ通りをキリンスキ広場方向へ意気揚々と進んだ。

彼らは誰一人として、この恐ろしい兵器をよく理解していなかったのである。

突然、大音響と共に500kgの高性能爆薬が起爆し、地獄絵が繰り広げられた。

正確な死傷者は諸説があって未だに不明であるが、A .ボルケビッチの説によれば死者500人、重軽傷者350人という想像を絶する悲惨な結末を迎えた。

(『ラスト・オブ・カンプフグルッペⅢ』;高橋慶史著P314)

 

この悲惨なシーンをこの映画はかなりリアルに描いています。
途中、「こんなシーンなくても良いのに」というところもあるにはありますが、ワルシャワ蜂起をよく描けている作品と思います。

 

ただし、DVDの表紙はかなりアクション色が誇張されているので、シーンとしては描かれていないところは差し引いてご覧ください。

 

 

『戦場のピアニスト』(ロマン・ポランスキー監督:2002年)

 

映画『戦場のピアニスト』

 

ユダヤ系ポーランド人のロマン・ポランスキー監督自身(フランスとの二重国籍)、第二次大戦中に母親を強制収容所で亡くし、父親は戦後を迎えるも強制労働に従事させられました。
本人もフランスで逃亡生活を転々とした経験があります。

 

この作品は「カンヌ映画祭パルムドール」とアカデミーの監督賞も受賞した作品です。
ワルシャワゲットーの様子や逃亡生活、「ゲットー蜂起」や「ワルシャワ蜂起」、逃亡生活中の支援者の裏切りなど、彼が経験したことやポーランド人ならではの描写が多くある作品です。

 

原作はポーランド人ピアニストのシュピルマンの体験記を脚色して、映像化したものになります。

 

 

『シンドラーのリスト』(スティーブン・スピルバーグ監督:1993年)

 

映画『シンドラーのリスト』

 

第66回アカデミー賞12部門でノミネートされ、そのうち7部門に輝いた作品です。
スピルバーグ監督自身、それまでは「優れた娯楽作品を作る監督」との評価でしたが、この作品でアカデミー作品賞と監督賞を受賞し、名実ともに名監督として評価が高まった作品です。

 

木下がこの作品を見てさすが! と思ったシーンを紹介すると、

 

■冒頭、ポーランド:クラクフ市をドイツ軍が行進するシーン、少年が先頭に立って行進するシーン、これは少なくとも一部のポーランド市民はドイツ軍を歓迎したのだと思いました。

 

■そして、ユダヤ人がゲットーに移住するシーンでは、市民たちが「Goodbye Jews!!」と叫ぶのも、ユダヤ人憎し、がポーランド市民にも少なくとも存在している、という描写なのでしょう。

 

■リアル描写はいくつもあります。
時代考証はドイツ軍の制服の細部にわたるまで描かれています。

 

■アウシュビッツ収容所もその1つです。
スピルバーグ監督は、引き込み線のあるアウシュビッツ収容所の内部で撮影をしたかったのですが、ポーランド政府からの許可はおりませんでした。
ならば、と収容所の外側に巨大なセットを作り「内部から外部に列車」を走らせ、あたかも内部に列車が入線したように撮影しました。

2019年に訪れたアウシュビッツ=ビルケナウ第二収容所の入り口側(外側)
スピルバーグ監督は収容所内部での撮影許可が下りなかったので、この外側にセットを作り、列車を入線のように走らせ、あたかも内側であるかのように撮影を行いました。

 

 

■小説も読みましたが、忠実に映像化されているのは、まさにスピルバーグ作品と納得する作品です。
決してこの作品も明るい作品ではありませんが、決して忘れてはいけない史実として見ていただくのが良いでしょう。
長い作品ですので、体調が良い時に(ニッコリ)

 

■アウシュビッツの所長:ルドルフ・ヘスも短い時間ですが登場させています。
彼を全く知らない方々は、後半のルドルフ・ヘス登場シーンを見ても誰なのかもわからないところですね。
「Mother, How old are You?」と収容所の女性囚人に聞いていくという一見、気遣いのできる普通の人物とみせているところがスピルバーグらしい描き方です。
しかし、そんな普通に見える人間が、ヘス本人によれば250万人を殺害したと戦後に証言しています。
スピルバーグはヘスを「人間の皮を被った悪魔」と描いていますが、スピルバーグは「人間の罪深さ」を描いているのだと思いました。

 

 

番外編:『謀議』(フランク・ピアソン監督:2001年T V映画)

 

TV映画『謀議』

 

この作品はTV映画ですが、『謀議』というタイトルでDVD作品として発売されました。
今では絶版となり、中古のDVDでも1万円前後で取引されています。
レンタルも出ていましたので、TSUTAYAなどの大型店舗なら今でもあるかもしれません。

 

TV映画と言いましたが、出ている役者はケネス・ブラナー(ダンケルク/ハリーポッターと秘密の部屋)、コリン・ファース(英国王のスピーチ)、など名優ぞろいの作品です。

 

映画は、1942年にベルリン郊外のヴァンゼー湖畔で行われた、いわゆる「ヴァンゼー会議」:“ユダヤ人問題の最終的解決”を決定した秘密会議を描いた作品です。
イギリスの俳優が多く、イギリス・アメリカ共同制作であるので、ドイツ側を描いた作品ではありますが、全編英語で制作されています。

 

会議を仕切ったのは、ラインハルト・ハイドリッヒ国家保安本部長官※1
他にアドルフ・アイヒマン中佐※2など、各分野の15人の高官で行われました。

 

※1:この会議の数ヶ月後、亡命チェコ人のみで編成されたイギリス軍特殊部隊によりプラハで暗殺

※2:戦後、アルゼンチンで亡命生活を送っていたが、1960年イスラエルの諜報機関モサドに捕らえられ、ユダヤ人600万人殺害の容疑でイスラエルにて死刑

 

個人的には、ケネス・ブラナーは紳士すぎてハイドリッヒのイメージとは少し違うと思いましたが、それはさておき。
構成されていた参加者は、いわゆる社会のエリートであり、家では良き父であり、良き市民である者たちが、あのような悪魔的犯罪を犯すところが人間の罪深さなのでしょう。

 

のちのユダヤ人の悲劇を理解する上で、よくできた作品なのでここに紹介しました。

 

今も世界のどこかで、そして身近に抑圧と弾圧に苦しむ方々がいることは忘れてはならないでしょう。

 

今回は、ここまで。
またお会いしましょう!!!

4月19日はユダヤ人にとって忘れられない日〜第二次世界大戦下のポーランド後編〜

皆さんこんにちは!
木下馨です。

 

前回は、ポーランドと8月1日について書かせていただきました。
前編はこちら
↓↓↓↓↓
8月1日はポーランド人にとって忘れられない日〜第二次世界大戦下のポーランド前編〜

後半も少し専門的になりますが、お付き合いください。

 

日本人には「ワルシャワ蜂起」と聞いても歴史に興味がある方は別にしても、あまり知名度はないかもしれません。
それが証拠に、1943年4月18日に起きた「ワルシャワ・ゲットー蜂起」と時に混同されることがあります。

 

1944年のワルシャワ蜂起は、ポーランド人が自分たちの領土を取り戻すためのテンペスト作戦の一部としての蜂起でした。
1943年のワルシャワ・ゲットー蜂起は、ポーランドのゲットーに住んでいたユダヤ人が、自分たちの存命をかけて起こした蜂起でした。

 

今回は、このワルシャワ・ゲットー蜂起をみていきましょう。

 

 

ユダヤ人殲滅作戦から立ち上がれ

 

ワルシャワ・ゲットー蜂起は、当時ナチス・ドイツが推し進める「ユダヤ人絶滅計画」いわゆる「ラインハルト作戦」中に起きたユダヤ人の蜂起です。
ゲットーに詰め込まれてしまったユダヤ人は、順次、強制収容所に送られて死を待つのみという過酷な運命が待っていました。
ゲットーのユダヤ人青年、モルデハイ・アニエレヴィッツは、「座して死を待つより戦おう」と、一縷の望みを掛けて最後まで戦うことを訴えかけ、立ち上がりました。
それがワルシャワ・ゲットー蜂起の始まりです。

 

ゲットーに閉じ込められたユダヤ人は約45万人。
劣悪な環境の中、伝染病や飢餓で約8万人以上が死亡しました。

 

当時、ポーランドには多くの「ユダヤ人絶滅収容所」が存在していました。
なぜ一国にそれほどまでの数の収容所があったのでしょうか?
それはポーランドという国の立地条件に要因がありました。
ポーランドは、当時ナチスが占領していた西側諸国からも、占領地区&枢軸国の各国(イタリア、ハンガリー、ソ連占領地区など)からも鉄道路線で集結しやすかったことが挙げられます。

※ ベウジェツ強制収容所、ソビボル強制収容所、トレブリンカ強制収容所そしてアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所など

 

ゲットーから、これら収容所には30万人以上がすでに輸送されていました。

 

結果、当時ゲットーには5万人以上の市民がおりましたが、戦闘要員は750人程度でした。
これはわずかな武器(拳銃、手榴弾、わずかな小銃、機関銃と弾薬、火炎瓶など)を考えれば、それだけの人数分しか行き渡らなかったというのが現実でした。

 

 

4月19日の勝利

 

蜂起の鎮圧には、ワルシャワの親衛隊司令官であったフランケネック准将がその任にあたりました。
彼は、全くゲットー鎮圧を甘く見ていました。
さしたる抵抗などないと踏んでいましたが、思わぬ反撃を受けます。

 

火炎瓶で戦闘車両は擱座し、機関銃でドイツ軍部隊は潰走します。
これはドイツの圧政に対して、ユダヤ人が初めて武器を持って抵抗した歴史ある日になりました。
のちにイスラエル建国に向けての基礎になったと言っても過言ではないでしょう。

※ 擱座(かくざ):戦車や車両が壊れて動けなくなること。船が座礁すること。

 

しかしながら、ユダヤ戦闘組織の勝利はこの日だけとなります。
失態を演じたフランケネックは解任され、新しい鎮圧部隊司令官にユルゲン・シュトロープ親衛隊少将が着任します。
シュトロープは高射砲や曲射砲を配備し、徹底した破壊を命じます。

 

ゲットーの外からの支援は限られたものでした。
前半で述べたポーランド国内軍からの支援はなかったわけではないですが、国内軍側も支援は来るべきワルシャワ蜂起に向けての準備もしなくてはならず、多くはできなかったのが実情でしょう。

 

 

さらなる悲劇

 

シュトロープは徹底した破壊の後、多数を絶滅収容所に送り、5月16日には「もはやワルシャワ・ゲットーは存在せず」との報告を行っています。
ゲットーの跡地には「ワルシャワ強制収容所」を設置し、破壊されたゲットー内の建物の後始末を、ワルシャワ強制収容所に送りこんだユダヤ人にさせています。

 

鎮圧された際に、数十名のユダヤ人は地下水道を通って脱出しました。
しかしながら、ユダヤ人を匿ったり、支援したりするポーランド人がいる一方、密告をするポーランド人もおり、多くは捕まり収容所に送られました。

 

多くの方はナチスだけが、ユダヤ人を迫害したと思ってないでしょうか?

 

ユダヤ人への差別、迫害はどの時代でも存在しています。
ポーランドは東欧では珍しい、ローマンカトリックの国です。
(西ローマ帝国の東側。ポーランドのほかルーマニアなど。ルーマニアはラテン語で「ローマ人の国」という意味です)

 

ポーランド人の92%はカトリック教徒です。
ローマ法王;パウロ2世もポーランド人です。

 

1991年、当時のポーランド;ワレサ大統領は、国交を締結したイスラエルを訪れ、ポーランド人の中にも反ユダヤ主義があったことを認め、国会で謝罪しました。

 

1930年代から排斥運動はありましたが、反ユダヤで有名な事件は1941年に起きた、ポグロム(大虐殺)「イェドヴァブネ事件」でしょう。
この事件では、ポーランド人の集団が、約300人のユダヤ人を納屋に閉じ込め、ドイツ兵の目の前でそれに火をつけたのでした。
ドイツ側の関与は今もってはっきりしませんが、ポーランド人が少なくても関与したことは公式に認められています。

 

 

アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所

 

「ホロコースト」(ユダヤ人絶滅政策)の象徴といわれるこの収容所は、ポーランドの首都;ワルシャワ中央駅からクラクフ駅まで2時間半、そこからはバスでの移動が普通です。

 

2019年に訪れたアウシュヴィッツ=ビルケナウ第二収容所。当時はユダヤ人を満載した貨物列車が収容所の中まで入線していました。

 

私は、2019年の11月にここを訪れました。

ワルシャワゲットーの場所は今では集合住宅も多い住宅街になっています。
その一角に「ゲットー蜂起」のモニュメントがあります。

 

ポーランドを訪れたら、人として、いや人間として必ず見ておかなくてはいけないと強く思い訪れました。
ですので、日本語のできるポーランド人ガイドさんを手配いただき(ワルシャワ大学はじめ、いくつかの大学には日本語学科があります)、ここを訪れました。
書面の都合で全てを書くことはできませんが、機会があれば必ず見ておくことが人としての努めではないかと思いました。

当日もイスラエルからの修学旅行生が多数見学ツアーを行っていました。
イスラエルでは必ず修学旅行にこの地を訪れるとのことです。

 

第二収容所からシャトルバスで15分くらいの場所にある「第一収容所」
入り口には世界的知られている「ARBEIT MACHT FREI (働けば自由になる)」というスローガンが書かれています。実際は死ななければ自由にはなれなかったのですが。

 

人間はまさに、天使にも悪魔以上にもなれるものだと思いました。
我々は加害者にも被害者にもなる可能性があるかもしれません。
多様性、と言葉で言うのは簡単ですが、お互いの「違い」を認めるのは思った以上に大変なことかもしれません。

 

しかしながら、我々は一人では生きていくことはできません。
お互いの「違い」を認めあい、共栄共存できることは困難なことかもしれませんが、身近なところからそれを認めあう社会にしていこうとの思いが見学した後の強い感想でした。

 

本日はここまで。

 

次回は、前編&後編でお話しした内容の映画の名作がいくつかあります。
それを独断ですがご紹介したいと思います。

 

また、お会いしましょう!