カーレース

日本グランプリ黎明期の伝説のレーサーたち

皆さんこんにちは!
木下馨です。
前回では佐藤琢磨選手とホンダの快挙をお伝えしました。
前回の記事はこちら。
インディ500マイルレースで佐藤琢磨選手が優勝して思うこと〜ホンダの軌跡〜

 


皆さんは1960年代の「日本グランプリ」をご存知でしょうか?
(正式名称は「日本グランプリ自動車レース」ですね)
いわゆる「高度成長期」、車の所有台数も多くなり、日本人の多くが、高嶺の花であった「自家用車」を手に入れるため頑張っていた時代です。

 

当時の車の保有台数は、例えば1969年(昭和44年)、乗用車は約550万台でした。まだまだ乗用車はステータスシンボルでした。
(我が家も当時、トヨペットコロナのオートマチック車に乗っていたのを覚えています)

 

ちなみに2017年(平成29年)の乗用車登録台数は、約6千百万台。
桁が違っていますね。

 

そんな時代ですから「自動車レース」「日本グランプリ」は日産、トヨタなど大手も参入し、国民から多くの関心を集めたものでした。

 

T.N.T」とは、その時代の国内自動車レースのトップを競った3者、「トヨタ」「日産」「タキ・レーシングチーム」の頭文字をとったものです。
トヨタは「トヨタ7」、日産は「R380〜382シリーズ」タキは、「ポルシェカレラ」で参加しました。

 

多くの若者は、どこのファンか、どのドライバーが好きかなど大いに語り合ったものです。

 

私もミニカーの収集(やはり外国製が高かったですが、人気がありました)に走り、両親に小遣いを大いにせがんだものでした。

 

レーサー、という職業も子どもたちの憧れであり、「将来の夢」で男子生徒は「レーサー」と書く者が多かった記憶があります。
その中で私が忘れられないドライバーを3人挙げてみましょう。

 

 

福澤幸雄(ふくざわ さちお)

 

福澤幸雄レーサー

 

当時レースができるドライバーは「お金持ち」の御曹司というイメージでしたが、まさに彼はそういう人でした。

 

福澤諭吉の曽孫(ひ孫)であり、パリで生まれてギリシャ人とのハーフであり、ファッションモデルをして慶應大学卒業。
家柄もよく、文句のつけようがない、憧れのレーサーでした。

 

ファッションブランド「VAN」の世代なら、「エドワーズ」の名前も覚えておいでになるでしょう。
その商品企画部長まで務め、数々のCMのイメージキャラクターをこなし、芸能人にも多くの親交があり、六本木の「キャンティ」の常連でもありました。

 

福澤幸雄。容姿端麗だった彼はプレイボーイでも有名だった一面もあったようです

 

そんな彼に悲劇が襲います。
悲劇は本番のレースではなく「トヨタ7」でのテスト走行中に起きました。
1969年(昭和44年)2月12日、静岡県袋井市のヤマハのテストコースで突然コースアウトして鉄柱に激突、その後炎上しました。
享年25才。
恋人と言われた歌手の小川知子が「夜のヒットスタジオ」の生出演中、泣きながら歌を歌ったのは有名な話です。

 

 

川合稔(かわい みのる)

 

川合稔レーサー

 

彼も「トヨタ7」を操るレーサーでした。
福澤亡き後のトヨタのエースとして期待されました。
彼がまた有名になったのは、当時、丸善石油のCMで一世を風靡した小川ローザと交際、結婚をしたことでした。

 

川合稔は映画俳優を目指していた時期もあり、モデルの小川ローザとの美男美女カップルは大いに芸能雑誌を賑わかしたものです。

 

結婚した当時夫婦で「コロナ」イメージキャラクターに

 

川合稔と小川ローザ。まさに美男美女の夫婦でした

 

 

1969年の日本グランプリでは、総合3位と人気&実力とも人気のレーサーの一人でした。

 

しかしながら1970年、アメリカのCan-Amシリーズ参戦を控え、鈴鹿サーキットでの走行テスト中、またしても「トヨタ7」(ターボチャージエンジン搭載型)でコースサイドの溝に落下し、命を落とします。
享年27才。
マシントラブルが疑われ、トヨタは有能な若者を相次いで亡くす結果となりました。
この頃からトヨタ7は「殺人マシン」という不名誉な称号をいただくことになります。

 

ちなみに小川ローザさんは今も健在ですが、結婚してわずか半年で最愛の伴侶を亡くし、芸能界からも引退をされています。

 

 

生沢徹(いくざわ てつ)

 

生沢徹レーサー

 

彼はレーサーと同時に、当時の若者のファッションリーダーでもありました。
国際的に活躍する数少ない日本人として、今でいうイチロー選手や錦織選手のような夢を持って世界に挑戦する人たちと同様に、日本人が応援した人と言えるでしょう。

 

私や青少年が「ポルシェカレラ」という車を覚え、憧れたのも彼の功績でしょう。

 

当時のスポンサーもファッション系で、生沢を応援していたことがわかります

 

1968年の日本グランプリでは、「タキ・レーシングチーム」のレーサーとして「ポルシェ910」で出場し、総合2位を獲得しています。
大手のワークスではなく、プライベートのタキ・レーシングチームを応援していた若者は、少なくても私の周りには多かったと思います。
判官贔屓的なところもあったと思いますが、生沢徹があまりにもカッコ良かったところも大いにあったでしょう。

 

1968年「日本グランプリ」で生沢徹が操ったポルシェ910

 

彼は1966年〜67年にイギリスF3レースに参戦していますが、当時の苦労話を読んだことがあります。
当時の為替は、1ドル360円の時代です。
しかし、ポンドはなお高かった。
なんと1ポンド1,008円!!

 

今の貨幣価値ですと1ポンド4,000〜5,000円くらいではないでしょうか。
そんなこともあり生沢は、ロンドンでは飲食も高くて困り、結局コーヒーしか飲めなかった、と語っていました。

 

彼は現在78才。
老いてもポルシェが似合うのはまさに生沢徹、という人だからでしょう。

 

 

真夏の夜の花火のように、ある時代に瞬間的に熱いパッションを注ぎ込んだ者たちの軌跡をお送りしましたが、いかがでしたか。
まだまだ熱く語りたいのですが、本日はここまで。

 

また、お会いしましょう!

インディ500マイルレースで佐藤琢磨選手が優勝して思うこと〜ホンダの軌跡〜

皆さんこんにちは!
木下馨です。
まだまだ暑い日が続き、地域によっては台風など今後も心配な時期が続きますね。
災害に見舞われた地域の皆さまの復興を、心より祈念しております。
そして、そのほかの地域の皆さまも、できうる限りの備えや防災をご準備されますように。

 


今回は、話題をモータースポーツにしたいと思います。
世界三大レースであるインディ500マイルレース(あとの2つは、「F1」と「ルマン24時間レース」)で、日本人レーサーの佐藤琢磨氏が、8月23日に行われた決勝で見事優勝しました!
彼は、2017年に続いての快挙となり、日本でも多くの報道機関が伝えました。

 

優勝して牛乳を飲む佐藤琢磨選手。インディ500の勝者は伝統的にミルクで祝杯を上げます。

 


日本のマスコミは「日本人が優勝」した、という時には大きく報道しますが、もっと素晴らしい「快挙」であることを伝え切れていないので、お伝えしたいと思います。

 


彼が乗ったマシンは「ダラーラ・ホンダ」というマシンです。
ダラーラは、イタリアに本拠地を置くコンストラクターです。
※ 設計&組み立てを主に行う企業のこと。エンジンとシャシーを全て提供しているのはメーカーと呼ばれます。代表的なメーカーはフェラーリでしょうか。

 


エンジンはホンダが提供しているわけですが、なんと、2005年からの15年間で12回もインディ500を制しています。

 


つまり、ホンダエンジンは、その優秀性を世界で遺憾無く発揮しているわけです。
欧米では「モータースポーツ」が定着していますので、ホンダエンジンの優秀性は、ホンダが大切にしている市場の大きいアメリカにおけるvisibilityアップに、確実に繋がっていると思います。

 


一部のレースファンならご存知かと思いますが、この快挙やホンダの世界的な立ち位置は、一般の人たちにはあまり報じられていないのではないでしょうか。

 


そんな「ホンダ」ですが、ホンダとレースとの間には、歴史の厚さとホンダの決意が存在していると言えます。
創業者;本田宗一郎氏は、町工場の頃から「世界」を目指していたと言われています。
つまり最初から目標がはっきりしていたわけです。
ホンダは世界を目指していたからこそ、現在も世界から認められる自動車会社になっているのではないでしょうか?

 


ちなみに「日産」はどうであったか。
私が思うに、彼らは世界ではなく、「トヨタ」をみていたのではないでしょうか?
この「目線の高さの違い」が、今の日産の現状だと思いますが、いかがでしょう。

 


さて、ホンダに話を戻すと、
「世界」に打って出るホンダは、まずは二輪で、もっとも過酷と言われた「マン島TTレース」に1959年から参戦しています。
※ 「マン島TTレース」では過酷さを立証するかのように、現在まで、239名のドライバーが亡くなっています。

 


そして、F1の世界にも飛び込んでいきます。
1961年からエンジン開発を始め、当初はロータスがエンジンを載せるはずが最終的には断られ、やむなくシャシーも自前で作る「メーカー」として参戦します。

 


そして1965年の第10戦のメキシコグランプリで、“リッチー”・ギンサーがドライブする1500CCエンジンのRA272が初優勝します。

 

リッチー・ギンサー選手

 

実車でのリッチー・ギンサーとリッチー・ギンサ選手

 


これは歴史的な快挙と言って良いと思います。

 


まだ、敗戦から20年しか経っていない東洋の島国の弱小自動車メーカーが、なんと、20世紀初めより行われている由緒ある自動車レースでその名を刻むことになりました。

 


幼心に、木下がモータースポーツに興味を持ったのは、この優勝した車体を正確にプラモデルにした「タミヤ模型」のおかげかもしれません。
当時、プラモデル少年でありましたので、頻繁に多くの悪童たちと”模型屋”に入り浸っていました(限られた小遣いの中でのやりくりでした。なので、買えなくても見に行っていました。お店は嫌だったでしょう(ニッコリ))。

 

子どもの頃、欲しいと思ったが買えなかったタミヤ模型のホンダF1(リッチー・ギンサーモデル)1/18 RA272

 


そこで大人たちが、子どもには高嶺の花の金額の、このF1模型を購入していたのを何度も見たものです。

 


そこから自動車レースにも興味を持ちますが、もちろん当時は、衛星中継があるわけではなく、またネット配信なんかはSFの世界ですから、かなり時間差があっての情報確認でした。

 


その後、1967年のイタリアグランプリで、ジョン・サーティスが優勝しこの年のコンストラクターズランキングでも、年間4位につけ第1期の最高成績となりました。

 

イタリアGPでチェッカーフラッグを受けるホンダマシーンのジョン・サーティス(左)2位のジャック・ブラバムに0.2秒差の優勝でした(右)

 


その後ホンダは一度、F1から撤退します。
しかし、1980年代のウイリアムズ・ホンダとしての活躍、アイルトン・セナの人気など、現在に至るまで紆余曲折はありましたが、モータースポーツ界でホンダは日本より世界で、その名を轟かせているのではないでしょうか。

 

 

その間、トヨタはルマンレースに力を入れています。

 


モータースポーツは、特に欧米では「文化」と言って良いでしょう。
現在も含め今後、自動車業界は大きな変革の時期に来ているのでしょう。

 


近い将来、レースにおいても水素エンジンや電気自動車で、その技術が競われるかもしれません。
その時に、日本の自動車会社は生き残ることができるか。

 


ぜひ、技術の向上に努め、世界をまた、あっと言わせて欲しいものですね。
本日はここまで。
ありがとうございました!