歴史

本当はたくさんあった?! 過去に回避できた核戦争の危機

皆さん、こんにちは!
木下馨です。

前回では「良い時代であった1960年代」をお知らせしました。
<前回はこちら>
記憶に残る1960年代が舞台のハリウッド映画3選

 

今日は視点を変えて1960年代以降の歴史をみてみましょう。
回避できた世界の危機についてです。

 

第二次大戦が終わり、原子爆弾の開発、水素爆弾、大陸弾道弾の開発等「冷戦」の時代も、この1960年代から始まったと言ってよいでしょう。
現在は約15、000発の核爆弾があるとされ、例えば、このうちの広島型原子爆弾が100発使われただけで、地球の大気は影響を受け、9度も下がり(もちろん放射能で多くが汚染され)作物不良で約20億人が餓死する、というデータもあります。

 

仮に、インド・パキスタン戦争が勃発すれば100発は使われる、という研究もあります。
ロシア、米国、中国が絡めばこの比ではありませんね。

 

では、過去「偶発的」に核戦争の一歩手前まで起きた歴史的危機を、皆さんはご存知でしたでしょうか?

 

 

キューバ危機

 

 

歴史的に有名なのは、1962年10月、キューバ政府が中距離弾道核ミサイルを配備したことによって起きた「キューバ危機」と言えるでしょう。
アメリカは、キューバのソビエト連邦の核ミサイルを撤去するよう要求し、かたやソ連は、アメリカが先にトルコから準中距離弾道ミサイルを撤去するよう要求。
まさに、一触即発の状況でした。
当時の核大国のソ連とアメリカの戦争が勃発すれば、世界的な惨事になることは目に見えていました。

 

しかし、この裏にはもっと危機的状況が起きていたことが後になってわかりました。

 

ソ連の潜水艦「B-59」の副艦長であった、ヴァシーリイ・アルピーホフ氏をご存知でしょうか?
彼こそが、キューバ危機の際、アメリカ海軍への核魚雷の発射を防いだ人物です。

 

ヴァシーリイ・アルヒーホフ副艦長

 

1962年10月27日、キューバ近郊の潜水艦の中で、ソ連海軍は核魚雷の発射準備を始めました。
アメリカ海軍駆逐艦は、核魚雷を搭載した潜水艦とは知らずに演習用の爆雷でB-59らに警告を発し、炙り出しを始めます。
B-59は一連の攻撃を避けるため、深度を深くとることになり、本国からの無線連絡を傍受することが困難になります。
艦長は、すでに地上では戦いが始まっていると想定して、核魚雷の使用を検討します。
このとき、核魚雷の発射には、アルヒーポフ氏含め3人の士官の承認が必要でした。
アルヒーポフ氏以外の2人(艦長と政治将校)は、「核戦争はすでに始まっている」と考え核魚雷の使用を承認をしましたが、アルヒーポフ氏だけは異議を唱えました。
これにより、核戦争の勃発はすんでの所で防がれたわけです。

 

キューバ沖で作戦行動中の「B-59」

 

アルヒーポフ氏は1998年に72歳で亡くなりましたが、その死には原子力潜水艦「K-19」の原子炉事故による被ばくが影響したとみられています。
また、彼は、「K-19」の副艦長として1961年に原子炉事故に際し、メルトダウンを防いだ勇敢な行動が本国で認められ、ソ連では核の専門家および軍人として名声を博していました。
こうした背景もあり、B−59の艦長も政治将校も、彼の同意なしに核魚雷の使用ができなかったと言われています。

 

なお、B-59の事実が明らかになったのは、2002年になってのことでした。
後に、当時のアメリカ国防長官;ロバート・マクナマラは「我々は、認識以上に核戦争に近づいていた」と述べています。

 

 

第四次中東戦争

 

 

1973年10月6日、イスラエルにおけるユダヤ教で最も神聖な日「ヨム・キップル」に、エジプト&シリア軍がスエズ運河とゴラン高原で戦端を開き、イスラエル軍に攻撃を開始しました。
三次に渡る中東戦争でイスラエル軍は勝利を重ね、油断をしていたのも大きかったでしょう。
「二正面作戦」を強いられたイスラエルは、国家的な危機を迎えます。

 

第四次中東戦争;展開するイスラエル機甲部隊

 

一時はゴラン高原とシナイ半島の放棄、そして「国家存亡」も考えられ、 イスラエル:ゴルダ・メイヤ首相は「核兵器の使用」を真剣に検討しました。
実際に核施設では、航空機用核弾頭13発が用意され、出撃準備を行っていましたが、戦況がやや好転したため、使用の機会は免れることとなりました。

 

ゴルダ・メイヤ首相

 

中東情勢は現在でも、なんら変わらない「今そこにある危機」が続いている状況です。

 

 

オーロラ観測ロケット

 

1995年1月25日、時のロシア大統領ボリス・エリツィン氏はアメリカから核弾頭が発射されたと報告を受けます。
彼は決断を迫られましたが、最終的に「反撃は行わない」という決定をします。彼の決断で人類は救われた、と言えましょう。
なぜならそのロケットはアメリカとノルウエーが打ち上げた、オーロラ観測の研究用のものでありました。
つまり「誤報」だとあとでわっかったのです。

 

ボリス・エリツィン大統領

 

 

***

我々が知らないだけでもしかしたら、まだまだ「人類の危機」があった可能性は否定できないでしょう。

 

 

我々は朝になれば、自然に太陽を拝することが毎日の日常だと思うには不確かな時代に生きていることも、自覚しなくてはいけないかもしれません。
しかしながらそれを解決するのも、また人類の責任と言えるでしょう。

 

 

本日はここまで。

また、お会いしましょう!!!

記憶に残る1960年代が舞台のハリウッド映画3選

みなさんこんにちは!
木下馨です。

早いものでもう10月ですね。

 

さて、前回は1960年代の「モータリゼーション」の高揚とともに、日本グランプリについて書かせていただきました。
前回はこちらから
日本グランプリ黎明期の伝説のレーサーたち

 

私は、以前、映画会社に勤めておりましたので、自分の好きな、また名作と言われるものを振り返ってみましたところ、「1960年代」の映画(つまりその時代を)描いている作品が多いと言うことに気づきました。

 

今回は、その作品を見ていきましょう。

 

 

アメリカン・グラフィティ

 

 

アメリカングラフィティより

 

 

ジョージ・ルーカス監督が青春時代を過ごしたカリフォルニアを舞台に、アメリカ人が誰でも経験したであろう高校生活を映像化した作品ですね。
今現在では名優や名監督で知られている人たちを、この映画では若き俳優時代の演技を見ることができます。
その人たちとは、すなわち、リチャード・ドレイファス、ロン・ハワード、ハリソン・フォードなどですね。

 

 

アメリカングラフィティより

 

 

 

アメリカングラフィティより。若かりし頃のハリソンフォード。

エピローグで4人の主人公の人生が描かれています。
ひとりは交通事故で死亡、ひとりはベトナム戦争で行方不明とか、この後にくる暗い時代を暗に記しています。
時代設定は1962年で、まだ希望も活力もある時代として描かれています。

 

 

 

ビッグ・ウェンズデー

 

 

ビッグ・ウェンズデーの主人公3人

 

 

ジョン・ミリアス監督が描く青春映画。
「反共主義者」のミリアス監督にしては皆が名作とする、まともな映画です。
(ミリアス監督、申し訳ありません)
私の中では結構、共鳴する青春映画です。

 

ジョン・ミリアスは黒沢明監督を師と仰ぎ、コッポラ監督作品(地獄の黙示録)の脚本を書き、「地獄の7人」などの戦争&武闘映画が多い監督として知られています。
しかし、この作品が彼をただの「戦争映画監督」にしていないと思います。

 

尊敬する黒沢監督のオマージュとして、「隠し砦の三悪人」で三船敏郎が馬上から刀を斬りつけるシーンを、「風とライオン」でショーン・コネリーに演じさせています。

 

 

 

ビッグ・ウェンズデーより

 

 

話を「ビッグ・ウェンズデー」に戻すと、3人のサーファーを軸に「時代」とともに、それぞれの成長を描いています。
この映画もスタートは1962年で、1974年の春、マット、ジャック、リロイの主人公3人は、伝説の大波「ビッグ・ウェンズデー」に向かって行く、と言う骨太の映画です。

 

青春時代は誰にでもあり、そしてそれは終わる時も来る、でも人生は挑戦の連続だ、と感じたものです。

 

 

グリーンブック

 

 

 

グリーンブックより、正反対の主人公たち。

 

 

 

ピーター・ファレリー監督が2019年のアカデミー賞で、最優秀作品賞を受賞している名作です。

 

映画は、人種差別が激しいアメリカ南部をコンサートツアーで回った黒人ピアニスト:ドン・シャーリーと、彼の運転手:白人のイタリア系アメリカ人トニー・ヴァレロンガ、という2人の実在した男の友情を描いた作品です。
この映画も1962年の設定で、アメリカでは人種差別の激しい時代でもありました。

 

ちなみに「グリーンブック」という題名は、黒人作家のヴィクター・グリーンによって書かれた「黒人ドライバーのためのグリーン・ブック」というホテルのガイドブックから名付けられています。
つまりこの時代、白人しか泊まれないホテルが多くあり、有色人種が泊まれるホテルは限定されていました。
まかり間違って、白人限定のホテルに有色人種が足を踏み入れただけでも、相当の罰を与えられるような時代です。
そうした”間違い”を回避するためのガイドブックが「グリーンブック」ということです。

 

ファレリー監督は「メリーに首ったけ」などコメディ監督のイメージが強いですが、素晴らしい作品に仕上がっています。
人種差別を超えて、持っている能力や個性を称賛・承認すること、お互いを理解すること、友情を育むことを、それぞれの立場と苦悩を浮き彫りにしながら描いています。

 

 

 

グリーンブックの主人公2人。旅の中で育まれるお互いへのリスペクトと深い理解が心に響く作品です。

 

 

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この時代の背景を言えば、公民権運動は盛り上がり始め、キング牧師の「I have a dream」の演説は、翌年の1963年になります。

 

60年代前半は、ベトナム戦争激化の前という時代で、アメリカでもソビエトとの「冷戦」真っ只中ではありました。
ですが、ジョン・グレンが有人飛行で地球の周回軌道を周り、ケネディ大統領が「60年代末までに月に人を運ぶ」と高らかに宣言した時代です。

 

夢も希望もあり、それを実現させる力もあったと自信に満ちた時代だったかもしれません。
それは、我が日本でもそうであったかと。

 

日本では、東京オリンピックを開催する前に新幹線や高速道路が整備され、世の中は「高度成長期」でした。
ちなみに1960年からの7年間で、日本人の所得は倍になった時代です。

 

映画の話をしてますので、映画業界の動向について言及します。
映画館の観客動員数のピークは、1958年の約11億2千万人から、4年後の1962年には、約半分の約6億6千万人に減っています(ちなみに2019年は、1億9千4百万人。約60年間でおよそ1/10に減少でした)。

 

しかしながら60年代は、私も見に行った

  • 「キングコング対ゴジラ」

※まだゴジラは悪役でした。この映画は観客動員1,255万人を集め今も実写映画歴代3位の記録になってます

  • 加山雄三さんの「若大将」シリーズ

※大学生に憧れました!

  • 親たちに連れられて見に行った植木等さんの「無責任シリーズ」

など、「娯楽作品」目白押しの時代でした。

 

この時代のあと、世の中はベトナム戦争、学生運動、海洋汚染、温暖化、そして感染症のパンデミック、となるわけです。

 

しかし、どんな時代でも希望を捨てるわけにはいけませんね。
この夢と希望があった時代の映画をひと時見ていただき、次の策を考える時間にしたいものです。

 

今回はここまで!
ありがとうございました!!!