野球

マッシー・村上〜アジア初のメジャーリーガーになった男

皆さんこんにちは。
木下馨です。

 

今回のKinopediaは村上雅則投手(法政二高)を取り上げます。
ここ数回、「野球」の話題ですので、このお話も続けていきたいと思います。

 

【ここ数回の野球話題はこちら】
皆さんは志摩定一選手と東門明選手を知っていますか?

夏の全国高等学校野球選手権大会;独断と偏見で選ぶ左腕投手ベスト3 (昭和版)

夏の全国高等学校野球選手権大会;独断と偏見で選ぶ左腕投手ベスト3 (平成版)

 

ここのKeyは「9月1日」という日になります。
9月1日は「防災の日」(1923年9月1日に起きた関東大震災を忘れないように)に制定された日ですが、皆さんも「その日だな」と思う方々が多いのではないでしょうか。
しかし、歴史上はいろんなことがこの日に起きています。
その話題は多くの紙面をとりますので、今回は割愛しますが、1つ挙げるとすれば第二次世界大戦:ドイツ軍がポーランドに侵攻した日がこの「9月1日」になります。

 

そして、今回取り上げる話題も「9月1日」が1つの歴史的な日になります。

 

野茂英雄投手(府立成城高校)がアメリカ大リーグ(以下MLB)にデビューしたのは、1995年5月2日です。
前年の日本プロ野球(以下NLB)近鉄バッファローズで1億4千万円の年棒から、ロサンゼルス・ドジャースでマイナー契約の約980万円なってでも、彼はMLBにこだわりました。

 

NLBで78勝、MLBで123勝あげた野茂投手の話はまた別の機会にしたいと思いますが、彼が活躍する30年前にMLBで活躍した日本人投手・村上雅則投手の話をさせていただきます。

 

村上雅則投手の投球フォーム

 

村上雅則投手は、後に読売ジャイアンツで不動の1番打者:柴田勲選手の1年後輩にあたり、控え投手として高校2年生の春に甲子園での選抜高校野球大会に出場しています。
今では全く考えられませんが、ドラフト制度がなく自由競争の時代でしたので、当時の南海ホークス:鶴岡一人監督から「アメリカに野球留学させてやるからうちに来ないか」とスカウトされ、高校在学中に契約します。

 

当時の南海ホークスも、契約を結ぶためにそんな話をしたのだと思います。
(当時は1ドル=360円の時代です。例えばスタバで約2$のコーヒーだと、当時は約720円のコーヒーになりますね。アメリカはまさに夢の国であったと思います)

 

村上投手は、南海に入団し3年目の1964年、MLBサンフランシスコ・ジャイアンツ(以下ジャイアンツ)傘下の1Aフレズノに野球留学で派遣されました。

 

そして運命の日がやってきます。

 

1964年9月1日、東京オリンピック開催まであと1ヶ月と日本中が盛り上がりを見せているとき、ニューヨーク・メッツ戦で

 

「ナウ・ピッチング! ナンバー・テン・マサノリ・ムラカミ」

 

と場内アナウンスでコールされ、8回の裏、メッツの本拠地シェアスタジアムのマウンドに向かい「メジャーリーグデビュー」を果たしました。

 

「マサノリ」の発音が難しいため「マッシー」との愛称がつけられました。
これは「日本人初」のMLB登板というより「アジア人初」のデビューとなりました。

 

日本人初のメジャーリーガー;村上雅則投手

 

この年、後のヒューストン・アストロズとなるコルト45’sで「アジア人初」の勝利を掴みます。
この年、1勝1セーブでシーズンを終えます。
彼は1944年生まれですから、20歳の若者が歴史に名を刻むことになりました。

 

翌1965年は、引き続きプレーを希望するジャイアンツと、復帰を希望する南海との間で揉めにもめます。
詳しい話は省きますが、なんとか1965年はジャイアンツでのプレーができるようになります。

 

当時のジャイアンツの主砲はウイリー・メイズで、この年も、2年連続4度目の本塁打王になりました。
しかし、同地区のライバル;ロサンゼルス・ドジャースの強力な投手陣、サンディ・コーファックス(26勝)、ドン・ドライスデール(23勝)の牙城を崩すことができず、結果は首位(ドジャース)に2ゲーム差の2位でシーズンを終わります。

 

その中でマッシー・村上は、今でいう中継ぎで重用され、45試合登板、4勝1敗8セーブを記録しています。
また、「アジア人初」のMLBでのヒットも記録しています。
この相手がなんと、「火の玉コーファックス」の異名をとる前述のサンディ・コーファックス投手からでした。

 

ちなみに、コーファックス投手は左腕投手で、4年連続で無安打無得点試合を達成。
この年43試合登板し、26勝8敗、防御率2.04、382三振の成績を残し、サイ・ヤング賞を獲得していますが、この大投手からのヒットでした!

 

ドジャースのサンディ・コーファックス投手

 

村上投手がMLBで活躍したのは、この2年間でした。
現在と違い、選手の権利が今より強くなく、発言の機会も球団側が強かった時代でした。
また、「アメリカに行くなんて」という怨嗟の気持ちも多少はあったと思います。
二十歳の若者が、アメリカから帰国し、羽田空港で記者の質問に英語で答え、「日本語を忘れたのか」と記者に一喝された時代です。

 

彼は日本に復帰し、NLBで103勝・30セーブをあげていますが、そのままMLBにいても近い数字は残せたのではないでしょうか。

 

村上投手も投げたサンフランシスコ・ジャイアンツのホームグラウンド(当時)
キャンドルスティック・パーク

 

イチロー選手(愛工大名電高校)や、松井秀喜選手(星稜高校)よりもずっと前に、前述のように、日本人選手の初安打を記録しているのも村上雅則選手です。
それだけでなく、イチロー選手や松井選手、そして大谷翔平選手(花巻東高校)など今は多くの選手が海を渡っていますが、1960年代に、たった一人で活躍していた日本人選手がいたことを誇りに思いますがいかがでしょうか。

 

野茂投手がドジャースで活躍し、多くの日本人記者、解説者がMLBを観戦しにきました。
その時、MLB関係者から異口同音の質問が
「マッシー村上は元気か?」
であったと多くの方々がお話していたということを聞きました。

 

30年間の空白はなんであったのかとは思いますが、野茂投手の前にMLBで活躍した「先駆者」村上雅則投手を忘れてならないと思い、今回のテーマとしました。

 

彼は紛れもなく、「初めてMLBでプレーした日本人」でした。

 

本日はここまで。
ありがとうございました!

皆さんは志摩定一選手と東門明選手を知っていますか?

皆さんこんにちは!
木下馨です。

 

前々回と前回で「甲子園の左腕投手」平成版と昭和版をお伝えさせていただきました。

【前々回と前回はこちら】

夏の全国高等学校野球選手権大会;独断と偏見で選ぶ左腕投手ベスト3 (平成版)

夏の全国高等学校野球選手権大会;独断と偏見で選ぶ左腕投手ベスト3 (昭和版)

 

 

今回お話しする志摩定一(しま ていいち)選手と東門明(とうもん あきら)選手のお名前にピンッ! と来た方は、大の高校野球ファン、大学野球ファンと言えるでしょう。

 

 

高松商業高校の『志摩供養』の由来となった志摩定一選手

 

「四国四商」と呼ばれている強豪校&伝統高はご存知でしょうか。
香川:高松商業
愛媛:松山商業
徳島:徳島商業
高知:高知商業の各高校です。
最近は私学の台頭や進学等、選手の選択肢は多岐にわたっていますので、上記の学校も甲子園に毎回出場することは難しくなってきています。

 

しかしながら、歴史のある上記4商のような学校には数々の「伝統」が残っているものです。

 

高松商業高校は、地元;高松の方々から「たかしょう」の愛称で親しまれ、プロ野球界でも水原茂さんや牧野茂さんなど殿堂入りの方々も輩出しています。
その古豪高の伝統が『志摩供養』です。

 

1924年、第1回選抜高校野球大会で優勝を果たした同校の主力に、志摩定一選手がサードを守っていました。
決勝の早稲田実業(東京)戦では6番サードでフル出場を果たしています。
その志摩定一選手はセンバツ以前から肺を病み、その年の冬に世を去りました。
「自分は死んでも魂は残って、三塁を守る」
との遺言に従った後輩たちが始めたのが『志摩供養』です。

 

どういうものかと言うと、オールドファンにはお馴染みの光景ですが、初回の守備に着く前、ベンチを含む全員が三塁ベースを囲んで円陣を組み、主将が水を吹きかけ、黙祷するというものです。

 

志摩供養。ベンチの全員で三塁前に集まる伝統的な儀式

 

しかしながら1978年、時の高野連は、「遅延行為及び、宗教的行為にあたる」として中止勧告を行いました。

 

皆さん、どう思いますか?
純粋な慰霊行為のどこが「遅延行為と宗教的な行為」になるのでしょう。
毎年、8月15日の試合中に全員黙祷を行なっていますが、あれは「遅延行為&宗教的行為」ではないというのでしょうか。

 

まあ、その議論はともかく、現在では少し柔軟になり三塁手がベースの前にひざまづいて左手を添え、黙祷することは許されています。
(地方大会では今まで通りの儀式を行なっているようです)

 

甲子園で志摩供養をする高松商業高校;石丸三塁手

 

高松商業高校の試合を見るようでしたら、思い出してください。

 

 

試合中のアクシデントにより死亡した東門明選手

 

東門明(とうもん あきら)選手は早稲田大学の内野手で、2年生の春にレギュラーを取り、1972年、第一回の日米大学野球選手権大会に早稲田大学からただ一人選出されます。
当時の6大学野球では、荻野友康投手(土佐高校)、山下大輔内野手(清水東高校)の慶應大学が四連覇。
長崎慶一外野手(北陽高校)、山本功児内野手(三田学園)の法政大学も強く、早稲田大学は低迷していた時期でした。

 

その日米野球第2戦。
東門選手は、7回に代打で登場し、三遊間へのヒットで出塁します。
1死後、藤浪行雄外野手(静岡商業〜中央大学)の二塁ゴロの際、米国代表のアラン・バニスター内野手の送球を頭部に受けてしまいます。

 

東門明内野手

 

当時は、ダブル・プレーを防ぐため、内野手に向かって行く、あるいはボールに向かって行くプレーが一般的であったと思います。
東門選手も怯むことなく、ボールに向かって行ったのでしょう、それが事故を生みます。

 

ヘルメットはしていたのですが、それをかすめ右側額にもろにぶつかります。その時点では意識もあったのですが、その後嘔吐したことから、試合をしていた神宮球場近くの慶應病院に搬送されます。
結果、右側頭骨骨折による頭蓋内出血および脳挫傷と診断されます。
そして、治療の甲斐もなく、5日後の7月14日11時35分、19歳で死去しました。

 

早稲田大学で行われた「お別れの会」では、バニスター選手は東門選手の両親の前で長く頭を下げていたそうです。

 

東門選手が代表メンバーとして着用していた背番号13は、日米大学野球選手権日本代表の永久欠番となり、早稲田大学野球部でも、東門選手の背番号9はこの後、永久欠番となりました。

 

皆さんはこのお話をどこまで知っていたでしょうか。
決して風化させていけない事柄だと思いますが、いかがでしょう。

 

個人的な意見を言わせていただければ、伝統ある早慶戦などで、東門選手を決して忘れないようなセレモニーを毎回行って欲しいと思います。
そして、このような事故を決して起こさない、東門選手の悲劇を忘れないためにも、早稲田大学の関係者の皆様には何か考えていただきたいと思います。

 

***

甲子園の交流試合も終わり、酷暑も終わる時がくるでしょう。
しかし、忘れては決していけないことも。

 

本日はここまで。
ありがとうございました。