歴史

皆さんは中日ドラゴンズの「板東英二」「権藤博」をご存知ですか?(前編)

皆さん、こんにちは!
木下馨です。

 

夏の甲子園も終わり、プロ野球も終盤戦を迎えました。
木下は、幼少時代から中日ドラゴンズのファンであります。
その昔は中日ドラゴンズにも話題性のある「全国区」の選手もおりましたが、この10年ほどはチームも低迷、オールスターでもファン投票で選出される選手もいません。
ファンも(私もですが)6月には来期のことを考え、楽しみなのはドラフト会議と秋のフェニックスリーグでの若手の活躍くらいしかなくなりましたね。

 

しかしながら、かつて中日ドラゴンズで活躍&話題になり、知名度が全国区の方々をまず2人紹介したいと思います。

 

 

坂東英二さん:中学時代〜甲子園での活躍

 

皆さんは、板東英二さんにどんな印象があるでしょうか?
タマゴが好きなおじさん、俳優、世界丸ごと不思議発見のパネラー、脱税した実業家などが主な印象ではないでしょうか?

 

このBlogで少しでも彼の印象が変わればいいな、と思っております。(ニッコリ)

 

板東英二さんは1940年、当時の満洲国虎林で生まれました。
話はそれますが、虎林といえば、1945年8月9日、ソ連軍が日ソ中立条約を破り、大挙として国境を突破して突如侵攻してきた時、虎林にある虎頭要塞は第二次大戦最後の激戦を迎えたと言われています。

 

虎頭要塞は最大の要塞砲と言われた「試製41センチ榴弾砲」など、多数の要塞砲を装備していました。
守備隊約1400名、在留民間邦人約1800名が立てこもる要塞は、8月26日の陥落まで10倍以上のソ連軍を相手に2週間以上戦い続けましたが、生存者は50名ほどという凄惨な戦いでした。

 

話を板東英二さんに戻しましょう。
彼は中学時代に野球を始めます。
今では小柄の170cmでしたが、センスは抜群だったのでしょう、中学時代、投手で61連勝を記録します。

 

彼は1956年に徳島県立徳島商業に入学して、その才能を開花させます。
3年生の春、高松商業との投げ合いで延長25回、準決勝&決勝で41イング投げたことは地方紙だけでなく、全国紙でもとりあげられました。

 

この「2日で41イング」という事態を重く見た高校野球連盟は、「延長は18回まで。そこで引き分けの場合は再試合」というルール変更を行いました。

 

この年の夏の甲子園(第40回全国高校野球選手権)にも出場します。
初戦の秋田商業(2回戦から出場)を17奪三振で完封。
3回戦:八女高校から15奪三振。
準々決勝は、魚津高校の村椿投手との投げ合いとなります。
この試合、延長18回で0−0、25奪三振を奪います。
次の日、腰の痛みを抱えながら9奪三振で勝利。
準決勝の作新学院戦でも14奪三振を奪って勝利。

 

高校時代の板東英二投手。死闘を演じた魚津高校(富山)村椿投手と。

 

決勝の柳井高校戦では、さすがに疲労が蓄積して本調子とはならず0−7で敗戦となりました。
しかしながら、大会を通じて奪った「83奪三振」、1試合での奪三振記録「25」は、2021年の第103会大会の歴史を見ても、いまだ破られていない記録なんです!

 

すごくないですか?
作新の江川投手も、横浜の松坂投手も、マー君も、桐光学園の松井投手も破れなかった記録です!

 

 

中日ドラゴンズ時代

 

1958年の秋に慶應大学のレセプションで合格、大学野球の道もありましたが、プロ野球もドラフト制度などはなく自由競争の時代で、中日ドラゴンズへの入団を決意します。
阪神タイガースと中日ドラゴンズが最後まで熱心であったとのことですが、一説によると中日ドラゴンズは契約金のほか、当時、高級品であったテレビをつけたのが決め手になったとか。

 

1959年、1年目で4勝、1960年には10勝、初めてのオールスターにも出場、1961年には開幕投手で12勝を上げるなど活躍を続けました。
この頃から右肘が悲鳴をあげ出し、長いイニングが投げられなくなっていました。
高校時代からの登板過多がたたり、入団した時には肩&肘共に痛めていました。

 

ドラゴンズ入団当初。若いですね。

 

1964年ごろからは今で言う「抑え投手」として実績をあげています。
当時の近藤貞雄投手コーチが、板東投手の起用の仕方に活路を見出しました。

 

今でこそ「投手分業制」は当たり前ですが、当時は「中3日登板;つまり1週間で2度登板」は当たり前でしたし、完投もまた当たり前で、投球制限もありませんでした。
当時は「セーブ記録」はありませんでしたが、今の記録に直すと以下のようになります。

 

1965年(47救援登板):救援投球回数112イニング、
10勝3敗11セーブ(21セーブポイント)、防御率2.17

 

1966年(59救援登板):救援投球回数128イニング、
13勝4敗11セーブ(24セーブポイント)、防御率2.57

 

1967年(50救援登板):救援投球回数116.2イニング、
14勝6敗7セーブ(21セーブポイント)、防御率2.47

 

今の中日ドラゴンズにも欲しいところです(笑)

 

 

木下馨が忘れられない、あの時の坂東英二さん

 

私が現役の板東投手を初めて見たのは神宮球場でした。
確か、1963年か64年であったかと思います。
山中巽投手のリリーフで投げていたと記憶しています。

 

力投する板東英二投手

 

そしてTV中継でしたが、忘れられない思い出があります。
1967年(昭和42年)当時、小学生であった私は、伊勢の母親の実家で夏休みを満喫しておりました。
伊勢の親戚一同と同年代の従兄弟たちもなぜか皆、読売ジャイアンツのファン。
東京の私が中日ドラゴンズファンとかなりの逆転現象でした。

 

忘れもしない8月19日の夜、場所は後楽園球場。
中日ドラゴンズVS読売ジャイアンツの試合。
中日ドラゴンズは、小川健太郎投手(明善高校:このシーズン29勝をあげ沢村賞)の好投、江藤慎一選手(熊本工業:64年&65年と2年連続首位打者)のホームランで1−0で9回を迎えます。
当時のジャイアンツはONを主力とする強力なチームでした。
小川投手は9回に乱れ、森昌彦選手(岐阜高)に同点タイムリーを打たれます。
なおも満塁のピンチ!

 

たまらず、西沢道夫監督は救援に板東英二投手を指名します。
バッターはこの年、西鉄ライオンズからトレードで来た田中久寿男(たなかくすお)選手(佐賀工業)でした。

 

後に、板東英二さんが述懐するところによると、
「田中選手はストレートに滅法強い、いやストレートしか打てない。小川投手の方が(小川投手はアンダースローの軟投派。事実この試合の対戦でもヒットは打たれてない)抑えられる」
と近藤貞雄投手コーチに伝えたそうですが、
「監督がお前しかいない、と言っている。大丈夫」と送り出されたそうです。

 

この悪い予感は的中します。
何球目を打ったかは忘れましたが、レフトスタンド上段に入る「サヨナラ満塁ホームラン」と言う幕切れでした!!
板東投手のストレートを見事に打ち返しました!

 

親戚一同、歓喜乱舞でしたがただ一人、私だけが悔し涙を流したのでした。
そこから性格がどんどん斜めに構えるようになったかもしれません(笑)

 

あと一回、生の板東英二さんと遭遇したのは日本航空(JAL)の国内線ラウンジでした。あれはまだ私がサラリーマン時代、東京〜大阪を頻繁に行き来していた時でしたね。
ラウンジにいても大きな声で携帯電話でお話しされていました。
私は、昔からのファンなので全く気にしませんでしたが(ニッコリ)

 

そんな全国区の板東英二さんは、中日ドラゴンズでの現役11年間で77勝をあげ、若くして引退しています。
あとは年代にもよると思いますが、皆さんが知っている板東英二さん、と言うことになりますか。

 

そんな板東さんも81才。
いつまでも元気で過ごしていただきたいですが、少なくても彼が若き青春時代に残した記録は色褪せることなく、永遠に光り輝くことでしょう。

 

本日はここまで!
次回は権藤博さんを取り上げます!

8月1日はポーランド人にとって忘れられない日〜第二次世界大戦下のポーランド前編〜

皆さん今日は!
木下馨です。

立て込んでいる状況にかまけ、投稿が久しぶりになりましたことお許しください。
今回から何回かに分けて「8月1日」と言われると木下が「この日は忘れてはならない」という日をお知らせしていこうと思います。

 

皆さんはポーランドという国をどこまでご存知でしょうか?
ある方は、ヨーロッパの一小国くらいしか思えないかもしれません。
またある方は労働組合「連帯」のワレサ議長を思い出す方もいるかもしれません。

 

木下の印象は
「粘り強く決してあきらめないド根性国家」
となります。
ここから数回に分けて、そのド根性ぶりを紹介していきましょう!

 

 

1944年8月1日

 

1944年8月1日。
当時ナチスドイツに占領されていたポーランドでは、ポーランド国内軍という市民軍が首都ワルシャワで「武装蜂起」を起こしました。

 

ドイツ軍はたちまち危機的状況に陥ります。
ここで当時の戦況を時系列的に見ていきましょう。

 

すでに6月22日から開始されたソ連軍の「バグラチオン作戦※1」がドイツ中央軍集団を「スチームローラー」の如く壊滅させていました。
ソ連軍は、約200個師団、総兵力250万以上、戦車&装甲車両5、200、野砲&迫撃砲45,000門、航空機6、000機という戦力を伴って。

 

実は、6月22日は3年前のその日、ドイツ軍がソ連に侵攻した日でした。
日付といい、戦力といい、ソ連を率いていたスターリンの腹の中が垣間見えるようです。

 

ソ連の圧倒的な戦力の下、あっという間にドイツ軍40万名が死傷または行方不明になります。

 

つまり、8月1日の当時、ワルシャワ蜂起をしかけたポーランド国内軍50,000名に対し、鎮圧できるドイツ軍の戦闘部隊は約1,000名しかいない状態でした。

 

なおかつ、ソ連軍はワルシャワから10kmのところまで進攻してきました。
これを聞き及んだ国内軍は、「今だ!」とばかりに蜂起を決意したのです。

 

ワルシャワ蜂起記念館の碑

 

8月1日17時をもって、国内軍司令官;コモロフスキ少将は武装蜂起の命令を下します。
彼らは楽観的でした。
ソ連軍はすぐそこまで来ていて、国内軍の武装蜂起を奨励していました。
また、ドイツ軍はすでに弱り切っており、敗残兵の掃討戦があるぐらいだろうと考えていました。

 

※1【バグラチオン作戦】独ソ戦開始から、ちょうど3年目にあたる、1944年6月22日にベラルーシで開始された、赤軍のドイツ軍に対する攻勢作戦の名称。この作戦の結果、ドイツ中央軍集団は回復不可能な大打撃を受け、戦線は大きく西に押し戻されることになり、ほぼポーランドまで移動した。短期間で空前の規模の戦死者を出したとしてギネスブックに記載されるほど、苛烈な戦いだった。出典:ウィキペディア

 

 

ドイツ軍の反撃

 

しかしながら、ドイツ側の対応は素早かったのです。
第一にソ連軍の補給戦は伸び切っており、新たな攻撃をするまで時間が必要だったこと。
ドイツ軍の反撃攻撃で戦線が膠着したことが挙げられます。

 

7月20日に起こった「ヒトラー暗殺事件」直後であったので、ヒトラーはドイツ国防軍を信用せず、鎮圧の指令を悪名高いヒムラー親衛隊長官に下令します。
ヒムラーはフォン・デム・バッハS S※2大将を最高司令官に任命します。

 

バッハ大将は緊急出動可能な部隊を「掻き集め」ます。
ドイツ軍戦車師団の一部も展開していましたが、主力となったのは、
・SS警察部隊
・反共主義ロシア人義勇兵部隊(カミンスキー旅団)
・犯罪者や囚人部隊(ディレルバンカー特別連隊)
・アゼルバイジャン部隊
・ウクライナ義勇兵
・コサック兵
など多種多様な部隊が集められました。

 

ドイツ軍の攻撃は激しい国内軍の反撃に晒されます。
攻撃初日、ドイツ側は約1kmしか進めませんでした。
しかしそれには理由があり、上記のドイツ側は本来の戦闘ではなく、一般市民への略奪や暴行、破壊にその時間を費やします。

 

ドイツ側の初日の損害は戦死6名、負傷24名。
国内軍と市民の犠牲者は約10,000人に達しました。

 

2019年に訪れたポーランド陸軍が管理する屋外施設に展示されているドイツ軍装甲兵員輸送車Sdkfz251ハノマーク。国内軍は貧弱な武器でドイツ軍と対峙することになります。

 

※2【SS】親衛隊の略。ドイツの政党、国家社会主義ドイツ労働者等の組織のこと。

 

 

スターリンの思惑

 

この悲劇が繰り返されている中、ソ連軍の動きは鈍いものでした。
1944年8月当時、ソ連の指導者スターリンはすでに「戦後処理」を考えていました。
つまり「共産政権樹立」です。

 

当時の国内軍は、イギリスのポーランド亡命政府の指示で活動していました。
スターリンは、ドイツ軍により国内軍が駆逐されるのを黙認していました。
大国の思惑によって運命が左右される小国の悲劇がここでも繰り返されました。

 

また、狡猾かつ巧妙なやり方で、さもソ連軍が国内軍を援護しているかのポーズを見せます。
ポーランド人部隊のポーランド第一軍を、ヴィッスラ河西岸で渡河攻撃を行わせます。
しかし、ソ連軍の援護は全くなしでした。

 

ポーランド人部隊は同胞のために必死に闘いますが、約2,000名を失って撃退されます。

 

また、イギリス軍が「国内軍や市民のために、武器弾薬や物資を航空機で空中投下をしたい」と申し出ても、スターリンは理由をこじつけて拒否し続けました。
当時の航空機ではイギリスからワルシャワまで往復の飛行はできず、物資を投下してもイギリスには戻れません。
イギリスはソ連領内の飛行場での着陸が必須でしたが、これを拒否したわけです。

 

スターリンの目的は明白となりました。
ドイツ軍に、英国政府とポーランド亡命政府の息のかかった国内軍を殲滅させることです。

 

ヒトラーもこのソ連軍の動きを察します。
バッハ大将にワルシャワの「完全なる破壊」を命令します。

 

ドイツ軍に破壊されたワルシャワ。戦後、何十年もかけて破壊される前の街並みを出来る限り再現し、今では元の美しい街並みが見えます。

 

 

終焉

 

もはや、国内軍には降伏する以外の道は残されていなかったのです。
1944年10月3日。
63日間に渡って粗末な武器と弾薬で抵抗してきた戦闘は、ドイツ軍に降伏し終焉を迎えました。

 

しかし、その国内軍の勇気と粘り強さは称賛に値します。
国内軍の捕虜は約9,700名、負傷者は6,000名を数えますが、約3,500名は地下水道などを通って郊外に脱出します。

 

市民の犠牲は今もってはっきりしないようです。
ワルシャワは当時約95万名の市民が住んでいたと推測されますが、15万〜20万名が約60日の戦闘で犠牲になったとされています。

 

国内軍の戦死・行方不明者、約16,000名
負傷者、約600名

 

ドイツ側の戦死・行方不明者、約2,000名
負傷者、約9,000名

 

国内軍の負傷者が極度に少ないのは、その苛烈な戦闘や蛮行の結果と言えるでしょう。

 

2019年に訪れたサスキ庭園にある無名戦士の墓

 

 

こうして味方だと思った側からも裏切られたポーランドですが、多くの犠牲を払っても尚、彼らは決して諦めることなく、立ち上がります。

 

ソ連軍がワルシャワを解放するのは、3ヶ月後の1945年1月17日になってからです。
その日、ポーランド国民解放委員会「ルブリン委員会」なる占領後の共産党支配を目指す政権母体も、一緒にワルシャワに入城します。

 

長きに渡った共産党一党独裁でしたが、ポーランド国民は諦めません。
その日はやってきます。

 

ポーランド国内軍が目指したリベラルな議会制民主政治が実現するのは、ポーランド統一労働党が敗北を喫して、自由化の幕開けとなった44年後の1989年6月の総選挙でした。

 

2019年、ワルシャワの夜

 

2019年、ワルシャワの夜

 

 

今日はこのへんで!
次回は、後編をお送りします。