記憶に残る1960年代が舞台のハリウッド映画3選

みなさんこんにちは!
木下馨です。

早いものでもう10月ですね。

 

さて、前回は1960年代の「モータリゼーション」の高揚とともに、日本グランプリについて書かせていただきました。
前回はこちらから
日本グランプリ黎明期の伝説のレーサーたち

 

私は、以前、映画会社に勤めておりましたので、自分の好きな、また名作と言われるものを振り返ってみましたところ、「1960年代」の映画(つまりその時代を)描いている作品が多いと言うことに気づきました。

 

今回は、その作品を見ていきましょう。

 

 

アメリカン・グラフィティ

 

 

アメリカングラフィティより

 

 

ジョージ・ルーカス監督が青春時代を過ごしたカリフォルニアを舞台に、アメリカ人が誰でも経験したであろう高校生活を映像化した作品ですね。
今現在では名優や名監督で知られている人たちを、この映画では若き俳優時代の演技を見ることができます。
その人たちとは、すなわち、リチャード・ドレイファス、ロン・ハワード、ハリソン・フォードなどですね。

 

 

アメリカングラフィティより

 

 

 

アメリカングラフィティより。若かりし頃のハリソンフォード。

エピローグで4人の主人公の人生が描かれています。
ひとりは交通事故で死亡、ひとりはベトナム戦争で行方不明とか、この後にくる暗い時代を暗に記しています。
時代設定は1962年で、まだ希望も活力もある時代として描かれています。

 

 

 

ビッグ・ウェンズデー

 

 

ビッグ・ウェンズデーの主人公3人

 

 

ジョン・ミリアス監督が描く青春映画。
「反共主義者」のミリアス監督にしては皆が名作とする、まともな映画です。
(ミリアス監督、申し訳ありません)
私の中では結構、共鳴する青春映画です。

 

ジョン・ミリアスは黒沢明監督を師と仰ぎ、コッポラ監督作品(地獄の黙示録)の脚本を書き、「地獄の7人」などの戦争&武闘映画が多い監督として知られています。
しかし、この作品が彼をただの「戦争映画監督」にしていないと思います。

 

尊敬する黒沢監督のオマージュとして、「隠し砦の三悪人」で三船敏郎が馬上から刀を斬りつけるシーンを、「風とライオン」でショーン・コネリーに演じさせています。

 

 

 

ビッグ・ウェンズデーより

 

 

話を「ビッグ・ウェンズデー」に戻すと、3人のサーファーを軸に「時代」とともに、それぞれの成長を描いています。
この映画もスタートは1962年で、1974年の春、マット、ジャック、リロイの主人公3人は、伝説の大波「ビッグ・ウェンズデー」に向かって行く、と言う骨太の映画です。

 

青春時代は誰にでもあり、そしてそれは終わる時も来る、でも人生は挑戦の連続だ、と感じたものです。

 

 

グリーンブック

 

 

 

グリーンブックより、正反対の主人公たち。

 

 

 

ピーター・ファレリー監督が2019年のアカデミー賞で、最優秀作品賞を受賞している名作です。

 

映画は、人種差別が激しいアメリカ南部をコンサートツアーで回った黒人ピアニスト:ドン・シャーリーと、彼の運転手:白人のイタリア系アメリカ人トニー・ヴァレロンガ、という2人の実在した男の友情を描いた作品です。
この映画も1962年の設定で、アメリカでは人種差別の激しい時代でもありました。

 

ちなみに「グリーンブック」という題名は、黒人作家のヴィクター・グリーンによって書かれた「黒人ドライバーのためのグリーン・ブック」というホテルのガイドブックから名付けられています。
つまりこの時代、白人しか泊まれないホテルが多くあり、有色人種が泊まれるホテルは限定されていました。
まかり間違って、白人限定のホテルに有色人種が足を踏み入れただけでも、相当の罰を与えられるような時代です。
そうした”間違い”を回避するためのガイドブックが「グリーンブック」ということです。

 

ファレリー監督は「メリーに首ったけ」などコメディ監督のイメージが強いですが、素晴らしい作品に仕上がっています。
人種差別を超えて、持っている能力や個性を称賛・承認すること、お互いを理解すること、友情を育むことを、それぞれの立場と苦悩を浮き彫りにしながら描いています。

 

 

 

グリーンブックの主人公2人。旅の中で育まれるお互いへのリスペクトと深い理解が心に響く作品です。

 

 

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この時代の背景を言えば、公民権運動は盛り上がり始め、キング牧師の「I have a dream」の演説は、翌年の1963年になります。

 

60年代前半は、ベトナム戦争激化の前という時代で、アメリカでもソビエトとの「冷戦」真っ只中ではありました。
ですが、ジョン・グレンが有人飛行で地球の周回軌道を周り、ケネディ大統領が「60年代末までに月に人を運ぶ」と高らかに宣言した時代です。

 

夢も希望もあり、それを実現させる力もあったと自信に満ちた時代だったかもしれません。
それは、我が日本でもそうであったかと。

 

日本では、東京オリンピックを開催する前に新幹線や高速道路が整備され、世の中は「高度成長期」でした。
ちなみに1960年からの7年間で、日本人の所得は倍になった時代です。

 

映画の話をしてますので、映画業界の動向について言及します。
映画館の観客動員数のピークは、1958年の約11億2千万人から、4年後の1962年には、約半分の約6億6千万人に減っています(ちなみに2019年は、1億9千4百万人。約60年間でおよそ1/10に減少でした)。

 

しかしながら60年代は、私も見に行った

  • 「キングコング対ゴジラ」

※まだゴジラは悪役でした。この映画は観客動員1,255万人を集め今も実写映画歴代3位の記録になってます

  • 加山雄三さんの「若大将」シリーズ

※大学生に憧れました!

  • 親たちに連れられて見に行った植木等さんの「無責任シリーズ」

など、「娯楽作品」目白押しの時代でした。

 

この時代のあと、世の中はベトナム戦争、学生運動、海洋汚染、温暖化、そして感染症のパンデミック、となるわけです。

 

しかし、どんな時代でも希望を捨てるわけにはいけませんね。
この夢と希望があった時代の映画をひと時見ていただき、次の策を考える時間にしたいものです。

 

今回はここまで!
ありがとうございました!!!

日本グランプリ黎明期の伝説のレーサーたち

皆さんこんにちは!
木下馨です。
前回では佐藤琢磨選手とホンダの快挙をお伝えしました。
前回の記事はこちら。
インディ500マイルレースで佐藤琢磨選手が優勝して思うこと〜ホンダの軌跡〜

 


皆さんは1960年代の「日本グランプリ」をご存知でしょうか?
(正式名称は「日本グランプリ自動車レース」ですね)
いわゆる「高度成長期」、車の所有台数も多くなり、日本人の多くが、高嶺の花であった「自家用車」を手に入れるため頑張っていた時代です。

 

当時の車の保有台数は、例えば1969年(昭和44年)、乗用車は約550万台でした。まだまだ乗用車はステータスシンボルでした。
(我が家も当時、トヨペットコロナのオートマチック車に乗っていたのを覚えています)

 

ちなみに2017年(平成29年)の乗用車登録台数は、約6千百万台。
桁が違っていますね。

 

そんな時代ですから「自動車レース」「日本グランプリ」は日産、トヨタなど大手も参入し、国民から多くの関心を集めたものでした。

 

T.N.T」とは、その時代の国内自動車レースのトップを競った3者、「トヨタ」「日産」「タキ・レーシングチーム」の頭文字をとったものです。
トヨタは「トヨタ7」、日産は「R380〜382シリーズ」タキは、「ポルシェカレラ」で参加しました。

 

多くの若者は、どこのファンか、どのドライバーが好きかなど大いに語り合ったものです。

 

私もミニカーの収集(やはり外国製が高かったですが、人気がありました)に走り、両親に小遣いを大いにせがんだものでした。

 

レーサー、という職業も子どもたちの憧れであり、「将来の夢」で男子生徒は「レーサー」と書く者が多かった記憶があります。
その中で私が忘れられないドライバーを3人挙げてみましょう。

 

 

福澤幸雄(ふくざわ さちお)

 

福澤幸雄レーサー

 

当時レースができるドライバーは「お金持ち」の御曹司というイメージでしたが、まさに彼はそういう人でした。

 

福澤諭吉の曽孫(ひ孫)であり、パリで生まれてギリシャ人とのハーフであり、ファッションモデルをして慶應大学卒業。
家柄もよく、文句のつけようがない、憧れのレーサーでした。

 

ファッションブランド「VAN」の世代なら、「エドワーズ」の名前も覚えておいでになるでしょう。
その商品企画部長まで務め、数々のCMのイメージキャラクターをこなし、芸能人にも多くの親交があり、六本木の「キャンティ」の常連でもありました。

 

福澤幸雄。容姿端麗だった彼はプレイボーイでも有名だった一面もあったようです

 

そんな彼に悲劇が襲います。
悲劇は本番のレースではなく「トヨタ7」でのテスト走行中に起きました。
1969年(昭和44年)2月12日、静岡県袋井市のヤマハのテストコースで突然コースアウトして鉄柱に激突、その後炎上しました。
享年25才。
恋人と言われた歌手の小川知子が「夜のヒットスタジオ」の生出演中、泣きながら歌を歌ったのは有名な話です。

 

 

川合稔(かわい みのる)

 

川合稔レーサー

 

彼も「トヨタ7」を操るレーサーでした。
福澤亡き後のトヨタのエースとして期待されました。
彼がまた有名になったのは、当時、丸善石油のCMで一世を風靡した小川ローザと交際、結婚をしたことでした。

 

川合稔は映画俳優を目指していた時期もあり、モデルの小川ローザとの美男美女カップルは大いに芸能雑誌を賑わかしたものです。

 

結婚した当時夫婦で「コロナ」イメージキャラクターに

 

川合稔と小川ローザ。まさに美男美女の夫婦でした

 

 

1969年の日本グランプリでは、総合3位と人気&実力とも人気のレーサーの一人でした。

 

しかしながら1970年、アメリカのCan-Amシリーズ参戦を控え、鈴鹿サーキットでの走行テスト中、またしても「トヨタ7」(ターボチャージエンジン搭載型)でコースサイドの溝に落下し、命を落とします。
享年27才。
マシントラブルが疑われ、トヨタは有能な若者を相次いで亡くす結果となりました。
この頃からトヨタ7は「殺人マシン」という不名誉な称号をいただくことになります。

 

ちなみに小川ローザさんは今も健在ですが、結婚してわずか半年で最愛の伴侶を亡くし、芸能界からも引退をされています。

 

 

生沢徹(いくざわ てつ)

 

生沢徹レーサー

 

彼はレーサーと同時に、当時の若者のファッションリーダーでもありました。
国際的に活躍する数少ない日本人として、今でいうイチロー選手や錦織選手のような夢を持って世界に挑戦する人たちと同様に、日本人が応援した人と言えるでしょう。

 

私や青少年が「ポルシェカレラ」という車を覚え、憧れたのも彼の功績でしょう。

 

当時のスポンサーもファッション系で、生沢を応援していたことがわかります

 

1968年の日本グランプリでは、「タキ・レーシングチーム」のレーサーとして「ポルシェ910」で出場し、総合2位を獲得しています。
大手のワークスではなく、プライベートのタキ・レーシングチームを応援していた若者は、少なくても私の周りには多かったと思います。
判官贔屓的なところもあったと思いますが、生沢徹があまりにもカッコ良かったところも大いにあったでしょう。

 

1968年「日本グランプリ」で生沢徹が操ったポルシェ910

 

彼は1966年〜67年にイギリスF3レースに参戦していますが、当時の苦労話を読んだことがあります。
当時の為替は、1ドル360円の時代です。
しかし、ポンドはなお高かった。
なんと1ポンド1,008円!!

 

今の貨幣価値ですと1ポンド4,000〜5,000円くらいではないでしょうか。
そんなこともあり生沢は、ロンドンでは飲食も高くて困り、結局コーヒーしか飲めなかった、と語っていました。

 

彼は現在78才。
老いてもポルシェが似合うのはまさに生沢徹、という人だからでしょう。

 

 

真夏の夜の花火のように、ある時代に瞬間的に熱いパッションを注ぎ込んだ者たちの軌跡をお送りしましたが、いかがでしたか。
まだまだ熱く語りたいのですが、本日はここまで。

 

また、お会いしましょう!