「雪中の奇跡」〜ソ連・フィンランド戦争【前編】

皆さんこんにちは!
木下馨です。

 

前回はウクライナへの侵攻の危険性をお話しました。
前回はこちらから
ロシアの歴史的動向から2022年を予測してみる

 

そのとき、歴史の1ページにロシア(旧ソ連)は、大きな国土を持っているにもかかわらず、「ソ・芬戦争」(ソ連・フィンランド戦争)という他国を侵略する歴史を書き加えました。

 

今回は「ソ・芬戦争」についてです。
現在のウクライナ侵攻の危険性を再考するうえでも、「歴史は繰り返す」という視点からも、ソ連が行った過去の侵攻経過を一緒に辿っていきましょう。

 

 

ロシア帝国の一部だったフィンランド

 

多くの皆さんはこう思ったのではないでしょうか。
「え!ソ連とフィンランドって戦争したことがあるの?」と。

 

ちなみに戦前の日本では、アメリカのことを「米国」、イギリスのことを「英国」と言ったように、フィンランドのことは「芬蘭」と記したので、「芬」(フン)とはフィンランドを表しています。

 

話を戻すと、そもそもフィンランドは「ロシア帝国」の一部でありました。
日露戦争時、フィンランドの指導者になるマンネルハイム将軍は、ロシア軍の騎兵隊中佐として日本軍と戦っています。

 

大きな転換点は、1917年の3月と11月に起きた「ロシア革命」です。

 

ロシア革命後、フィンランドはソビエト政府から独立を与えられます。
ところが1917年12月、フィンランドはソ連に共鳴する国内の革命を支持する赤衛軍と、フィンランド独立を支持する白衛軍と事実上の内戦状態になります。
詳細は省きますが、結果として白衛軍が、ドイツ軍;ゴルツ将軍率いるドイツ軍一個師団の支援を受け、赤衛軍を国内から一掃しました。

 

では、再びソ連を中心に歴史を紐解いていきましょう。

 

 

独立を許しても手放したくないフィンランド

 

ロシア革命後のソ連は、列国のひどい武力干渉に苦しみました(日本もシベリアに出兵しています)。

ソ連が抱える脅威のひとつとして、レニングラード(現サンクトペテルブルク)からわずか32kmのフィンランド領カレリヤ地峡の情勢が挙げられます。
カレリヤ地峡は、ドイツを始めとする列国の橋頭堡(きょうとうほ)に利用される可能性がとても大きかったのです。

*橋頭堡(きょうとうほ):敵地などの不利な地理的条件での戦闘を有利に運ぶための前進拠点であり、本来の意味では橋の対岸を守るための砦のこと(Wikipediaより)

 

神経過敏となっていたソ連政府にとって、カレリヤ地峡の情勢は現実以上の大きな脅威と感じたのかもしれません。

 

これは今のウクライナの状況と、精神的には全く何も変わっていない状況かもしれません。
ウクライナの首都キエフからモスクワまで756km。
東京から山口県の徳山市辺りでしょうか。

 

現在のロシアがウクライナでも神経質になるのですから、ソ連国境からわずか32kmであればより過敏に反応したのは当然でした。

 

 

ソ連のバルト三国への干渉

 

1939年9月、第一大戦後に誕生したバルト三国(エストニア、ラトヴィア、リトアニア)に対しソ連は勢力下に置こうとします。

 

以下、第一次ソ・芬戦争を描いた書籍『雪中の奇跡』を引用します。

 

第一次ソ・芬戦争:「冬戦争」を描いた『雪中の奇跡』

 

 

「エストニア、ラトヴィア、リトアニア三国の新ファシスト的な指導者達はあたかも自分達が自国の国民の支持を受けていると見せかけてはいるが、その実、人民大衆はソ連邦との同盟を望んでいるのだ」というお得意の論法で、ソ連はバルト三国に相互援助条約を強要した。
三国の指導者は(自国の人民にそむき、とソ連はいう)ドイツに助けを求めた。(『雪中の奇跡』梅本弘著:P14ページ」)

 

なぜドイツ?
と思う方々も多いのではないでしょうか。
前述のゴルツ将軍の援軍もそうですが、歴史的に強い結びつきがあります。

 

「ハンザ同盟」は中学生、高校生の世界史の教科書で聞いたことがある方もおいでになるのではないでしょうか?
バルト三国は古くから「ヨーロッパ」であり、13世紀から16世紀にかけて北欧の商業圏を支配した北ドイツの都市同盟です。

 

リューベック・ハンブルクなど北海・バルト海沿岸の諸都市が参加しました。
最盛期には70以上の都市が参加した経緯からも、ドイツとは文化的、そして政治的に関係が強い国々でした。

 

そしてバルト三国はどうなったでしょうか。

 

同年の十月までにバルト三国はそれぞれソ連との相互援助条約を締結した。
この条約によってソ連は、三国の独立が任意の欧州大国から脅かされた場合、これらの国の独立を守る義務を負ったとして、ソ連軍部隊をバルト三国に進駐させ、各地に海軍基地、空軍基地や沿岸砲台などを設けた。
(中略)三国のソ連邦への合併の下準備を着々と進めて行った。(『雪中の奇跡』梅本弘著:P14ページ、P15ページ」)

 

ドイツがこのとき動かなかったのは、「独ソ不可侵条約」の秘密議定書にヒトラーとスターリンの密約があり、バルト三国とフィンランドはソ連が、ポーランドの半分はドイツが支配下に置く、ことが明記されていたからです。

 

他国の運命を決める大国の野望は今も昔も変わらない、といえるのではないでしょうか?

 

ソ連軍は国境線全体から侵攻を開始

 

 

ソ連のフィンランドに対する過酷な要求。そして冬戦争へ

 

次にソ連は、フィンランドにも同様の要求をします。
何度かの交渉をしたソ連の要求は過酷なものでした。

 

それはカレリヤ地峡の防衛線、つまり十数年間かけて営々と築き上げてきたマンネルハイム線(木下注:本土防衛陣地及び要塞線)の撤去とフィンランド湾からバルト海への出口に位置するハンコ半島の三十年間貸与、豊かな、そして重要な国境地帯でもあるカレリヤ地峡南部、フィンランド唯一の北極海への出口でもあるレイバチ半島など、フィンランドの領土二千七百平方キロメートルの割譲がソ連の要求内容だった。(『雪中の奇跡』梅本弘著:P16ページ」)

 

このあたりにの交渉経緯はまず無理難題を投げかける。
今のウクライナへの交渉でも相通ずる手法ですね。

 

フィンランド・ソ連の話し合いは、遂に決裂しました。
このとき、フィンランドの首脳は本当にソ連が攻撃してくるとは思ってなかったと推測されます。

 

歴史は、突然動きます。

 

我々日本人も、某国のミサイルが「まさか」日本には打ち込んでこないと多くは思っていますし、某大国が日本固有の領土を「占領」するとも本気で思ってないのではないでしょうか。
また、「全世界がそんな暴挙を許すはずがない」とも思っているでしょう。

 

しかしながら、そうでしょうか?

 

クリミア半島にロシア軍が侵攻しても、香港、ウイグルの状況を聞いても、多くの国は反対声明や遺憾の意は表明しますが、そこまでです。
本気で戦うことは多くの犠牲が出ますが、このソ・芬戦争は多くの教訓を残していると思います。

 

この時、フィンランド国の総人口はわずか、三百七十万人。
ソ連は一億七千万人の大国でした。

 

普通に考えれば開戦、一週間でフィンランドは占拠されてしまう、と誰もが思っていました。

 

ソ連は宣戦布告なしにフィンランドに攻め込みます。
世界は、この侵略行為に対し、国際連盟からソ連を追放しますが、ソ連の侵攻は始まったばかりです。

 

ここから105日間に渡って、第一次ソ・芬戦争:「冬戦争」(フィンランド語でタルビ・ソタ)は幕をあけます。

 

トナカイも多用するフィンランド兵

 

中編では実際のこの戦いの経緯を書いてみたいと思います。
本日はここまで。

 

また、お会いしましょう!

ロシアの歴史的動向から2022年を予測してみる

皆さんこんにちは!
いつもありがとうございます。

2022年初めての投稿になります。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
2022年も皆様にとって良い年でありますように、と思うこの頃ですが、世界的には緊迫している地域もあり、この辺りを「歴史」の観点から見てみたいと思います。

 

 

緊迫するウクライナ情勢

 

昨今、ウクライナ情勢が風雲急を告げ、報道によってはこの1月から3月までに侵攻する情勢が報じられています。
そもそもの原因は、ロシアは旧ソ連構成国だったウクライナのNATO加盟に激しい拒絶反応を示しています。
クリミアの併合と、親ロシア勢力の力が強いウクライナ東部の不安定化こそ、ウクライナのNATO加盟を阻止するロシアの戦略と言えるのではないでしょうか。

 

しかしウクライナはれっきとした独立国。
他国に干渉されるのは「言い掛り」
と言えるのではないでしょうか?

 

過去ロシアは(旧ソビエト連邦:以下ソ連)「力による介入」を幾度となく行ってきました。

 

近代の歴史を見てみましょう。
特に「共通の敵」を持つ「盟友」を持つと大胆な行動に出ます。

 

 

ソ芬戦争(第一次ソ・フン戦争:冬戦争とも言う)

 

1939年11月、ソ連(現ロシア)は突如、フィンランドに対し29日に国交断絶を宣言し、翌30日に宣戦布告なしに国境全域で侵攻を開始しました。

 

ソ・フン戦争(ソ連軍の侵攻ルート)

 

当時、ナチスドイツは9月にポーランドに侵攻。
その前月に「独ソ不可侵条約」を結びました。
この条約はごく平凡なものでしたが、独ソの結託の裏には他の何かが締結されていると、当時からささやかれていました。

 

それが、「秘密定義書」です。
実は、ソ連は「バルト三国とフィンランド、ポーランドの半分は支配下に置く」ことをこの「秘密議定書」の条約に入れていました。
ソ連のフィンランド侵攻は、密かにスターリンとヒトラーの間で締結した結果だったということです。

 

西側諸国(英米仏)はナチスドイツの対応に精一杯で、ソ連のバルト三国進駐とフィンランド侵攻に対して、反対声明は出しました(国際世論は強くソ連の侵攻に反発)。
そして、国際連盟はソ連を追放しました。
しかし、出兵までの余裕はなく、いくつかの武器供与を行いましたが、多くは翌3月の講和条約後に届いたものが多く、また旧式の武器等でした。

 

この時期、西側諸国の共通の敵は明らかに「ヒトラーとスターリン」の独裁国家でした。
歴史に「もし」は禁物ですが、デンマークやスウェーデンが英仏10万人の兵を通過することを許可していれば、今の世界勢力図は大きく変わっていたかもしれません。

 

戦死者の数を比べても明らかなように、人口約400万人のフィンランドは、3億人のソ連に対し善戦しました。
【戦死者】
フィンランド軍:27,000人
ソ連軍:20万人(フルシチョフは100万人とも)

 

フィンランドは「独立」こそ守りましたが、国土の1/8を割譲され、国民の12%は第二の都市ヴィープリを含めカレリヤ地方から追放されました。
日本に置き換えれば、丁度、東京の人口約1,200万人が土地を追われた、ということになります。

 

ここでのポイントは「同時に二ヶ所:もしくはそれ以上で」紛争を起こすと国際世論は対応ができない、と言うことでしょう。
「二ヶ所で紛争を起こす」のは、世界の目と世論を分裂させる常套手段と言えます。

 

 

ハンガリー動乱

 

1956年10月、ハンガリーで起こった大規模な民衆蜂起のことです。
当時の共産党政権ラコシ首相の独裁ぶりに反発し(男性人口の2割から3割が強大な治安機関により、無罪の罪で逮捕、拷問、流刑、強制労働などに処せられた、と言われています)反体制デモが起きました。

 

ハンガリー動乱

 

これに治安部隊が発砲し、暴動となったわけですが、後任のナジ首相は必ずソ連軍が介入してくると思い、「ワルシャワ条約機構」からの脱退を発表します。

 

ナジ首相も、それを支持した民衆もなぜ、そんな「強気」になれたかといえば、「必ず西側が助けに来てくれる」という思いがあったからです。

 

隣国、オーストリアでは、ソ連軍はオーストリアから撤退し、アメリカ軍が駐留していました。
オーストリアとハンガリーはもともと11年前までは、1つの国を形成していました。
ですから、ハンガリーもオーストリアと同様のことが起きると予測したのでしょう。

 

しかしながらアメリカ軍はびくとも動かなかったのです。
何故でしょうか?
アメリカは次にご紹介する中東に釘付けだったのです。

 

 

スエズ動乱:第二次中東戦争

 

1956年7月、エジプトのナセル大統領は「スエズ運河国有化宣言」を行いました。
このやり方に憤慨したのは、旧盟主国のイギリスと中東諸国に利権を持つフランスでした。
これにイスラエルが加わり、10月29日にシナイ半島でイスラエル軍が攻勢に出ます。

 

スエズ動乱:侵攻するイスラエル軍

 

英仏イ軍は、エジプトを降伏寸前まで追い詰めます。
しかし、ここでアイゼンハワーのアメリカが、なんとソ連のブルガーニン首相と手を組み、イスラエル軍の撤退と英仏の即時停戦を勧告したのでした。
また国際連合(国連)決議も停戦勧告を採決します。

 

アメリカは、ヨーロッパ(英仏)と中東(石油資源)、そしてイスラエルに対して影響力を行使する「政治的」な勝利を狙ったわけです。

 

また、冷戦下で、ソ連との新たな火種は避けなければなりません。
自由を求めるハンガリー民衆の声はアメリカには届かず、ソ連としてもエジプトに恩を売る形になりました。

 

まさに「大国の野望に小国が飲み込まれる」という形です。

 

第二次大戦中、アメリカの国力&軍事力はまさに「超大国」でした。
「二正面作戦」も全く可能でした。

例えば、1944年6月の「ノルマンディー上陸作戦」(オーバーロード作戦)では
・大小艦艇約6,000隻
・航空機12,000機
・6月6日だけで13万人以上の兵力で上陸
・7月中旬に130万人以上の兵力を上陸させています。

 

そして時を同じくして、太平洋では「マリアナ沖海戦」が6月19日から行われました。
・大小艦艇約5,000隻
・アメリカ海兵隊3個師団
・陸軍27歩兵師団
・航空兵力(空母艦載機約1,000機)
上記の戦力をもって、サイパン島、テニヤン島初めマリアナ諸島の占領、そして日本艦隊との戦いや上陸作戦を行い、日本軍を圧倒します。

 

何より新兵器の「レーダー」と「VT信管」(砲弾が目標物に命中しなくとも一定の近傍範囲内に達すれば起爆できる信管)など、技術でも日本軍を圧倒していました。

 

***

かつては超大国であったアメリカですが、この度、「ウクライナ」と「台湾」で有事があった場合、どのような対応ができるか全く不明です。
ロシアも中国も、もはや同等の「大国」と言えます。
「二正面」で有事が起こる確率は高いのではないでしょうか。
また、我が国はいかに対応すべきか。

 

歴史の「瞬間」は後年になって「その時」であると分かります。
かつて、ナチスドイツがフランスに電撃作戦で侵攻しましたが、パリのカフェはそのニュースが流れても若者や民衆でいっぱいでした。
5月のサマータイムを楽しんでいたわけです。

 

2022年のある日、「歴史の1ページ」が暗いページで綴られないようにしたいものです。

 

本日はここまで。
また、お会いしましょう!