映画『八甲田山』にみるリーダーシップとは

皆さんこんにちは!
木下馨です。

 

前回は、南極極点に到達するため、選抜隊を編成したアムンセン隊とスコット隊の話題を上げました。

前回はこちらから

人類初の南極点到達から見るリーダーシップ

 

今回は、「極寒の中での遭難」日本版を見て、リーダーのあり方を考えてみましょう。
日本で有名なのは、「八甲田雪中行軍遭難事件」というものでしょう。

 

 

 

雪中行軍の背景

 

 

1902年(明治35年1月)、風雲急を告げる対ロシアとの戦いを前に、青森歩兵第5連隊と弘前歩兵第31連隊の両隊にとって、冬季訓練は欠かせないものでした。
そして、もしロシアが攻勢に出て宗谷海峡を支配下に治め、青森の海岸沿いが占領された場合、陸路で物資を運搬することも想定しての訓練でもありました。

 

映画『八甲田山〜死の彷徨』では2つの部隊に命令が下る場面がありますが、実際は全く別々に計画されたものでした。

 

冬の八甲田

 

青森歩兵第五連隊(以下五連隊)は、210名中199名が死亡し、雪山の遭難としては未曾有の死者数になります。
これに対して、弘前歩兵31連隊(以下31連隊)は、新聞記者1名を加えた38名全員が冬の八甲田を無事に踏破しました。

 

この事故の原因を見ていきましょう。
そこには、どんな時代でも通じる「リーダーのあり方」が垣間見られます。

 

 

1)31連隊は、「雪中行軍に関する服装、行軍方法等」、3年がかりで訓練してきた総決算でした。
つまり、計画&準備がしっかりできていました。
総延長約224kmを、11泊12日の予定で踏破しようという計画です。
到着するであろう予定の村々や役場に事前に連絡し、食糧や宿泊施設、寝具などの用意を怠りませんでした。

 

また、当時の装備は現代のような、「ダウンコート」も「ゴアテックス」素材のコートもありませんし、下着に「ヒートテック」もありません。
どんな装備かと言えば、彼らが準備したのは軍足を3枚重ね、凍傷防止に唐辛子をまぶし、油紙で包む、というものです。
もちろん、交換用の軍手、軍足は持参しました。
そして行軍中は全員を縄で結び一列で行軍をしました。

 

 

2)5連隊の指揮は神成大尉(映画では神田大尉)が取り、任命されたのはなんと、行軍の約3週間前でした。
31連隊の計画では、駐屯地から青森、青森から田代温泉間の雪中行軍の約20kmを一泊二日の行程で行うというものでした。

 

210名の大部隊でしたが、兵の多くは宮城県や岩手県の農家の出身者が多く、極寒の山中の冬を経験したものは少なかったのです。
また、神成大尉は少なくても将校になってからは雪中行軍の経験もなく、他の将校も半分は雪国出身ではありませんでした。
つまり、「雪の怖さ」を知るものが少なく、準備も万全ではありませんでした。

 

また、運悪く予備雪中行軍を行った時は晴天に恵まれ、距離も20kmの行軍という実際の約1/10の距離でした。
加えて前日には、「壮行会」と称して夜遅くまで宴が催されました。
さらに、予備の軍手、軍足を持つものは皆無で、「田代温泉で一泊」的な今でいうトレッキング気分であったと推測されます。

 

雪中行軍隊の両指揮官

 

 

困難な時のリーダーの判断

 

 

状況判断の甘さが、「全員帰還」と「大量遭難」の差となりました。
5連隊は神成大尉が指揮を執っていたわけですが、映画でも描かれていますが、山口少佐(映画では山田少佐)との意思疎通の不一致と指揮権の混乱があったことが多くの混乱を呼びました。
また、軍の威信をかけて地元民の道案内を全て断っています。

 

しかし、現場での混乱以前の問題として、準備段階から全て見通しが甘かったと言えるでしょう。
それは一事が万事と言えるが如く、装備、食糧準備、編成の何から何まで、全てに言えたことですが、「冬山の準備」を一兵卒まで徹底して行うべきでした。
緊張感のない緩んだ空気をそのままにすること自体、リーダーとして失格かと思います。

 

青森第5連隊

 

青森5連隊の生存者11名。多くの者は凍傷で両手、両足を切断するに至ったが、義手義足での撮影

 

 

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翻って、福島大尉の目的ははっきりしていました。
38名という小部隊の編成について、「この小部隊の何が雪中行軍か?」と一部の上層部から批判がありましたが、「訓練でなく雪中の研究であるから、これで十分」と批判を跳ねつけました。

 

また、福島大尉は編成も地元;青森の人間と体格&体力を考慮して選抜していました。
そして、彼自身、岩木山での雪中行軍を経験していたこと、案内人や宿泊拠点なども確保していたことなども、行軍を成功に導く要因として挙げられます。
「目的は何か」が明確であり、それを達成するための準備に怠りがなかったことが全員無事帰還、という結果になったということでしょう。

 

 

***

現代にも通じますが、リーダーの「希望的観測」が多くの過ちを生む可能性は大いにあると思います。

 

「なんとかなる」
「前回うまくいったから今回も」
「過去に経験しているから大丈夫」

 

また、「ここまでやってきた。今少しだからやってみよう」
「社長のお声がかりのプロジェクトだ。なんとか形にしよう」
と現場は思うかもしれません。

 

その時も、「意地」とか「威信」とか「名誉」とかが邪魔をして、判断を誤ることも多くあることでしょう。
この八甲田山や前回のスコット隊のように。

 

いざ、当事者になってみると、「決断」というのは難しいものだと思います。
しかしながら、普段からの「知識」とシミュレーション、経験などを踏まえて訓練していくことが、「より正しい判断」を生む可能性はあると思いますが、いかがでしょうか。

 

本日はここまで。また、お会いしましょう!

人類初の南極点到達から見るリーダーシップ

皆さん、こんにちは!

木下馨です。

まだまだ寒い日が続きますね。

 

人間は「極寒」であっても「挑戦」をやめないものです。ハードルが高ければそれを超えようとするのは人間の本性かもしれません。
そういった歴史を見ていきましょう。

 

寒い、といえば地球の極地、といえば南極と北極ですが、大陸なのは南極です。
今から110年前においては、この未知の大陸;南極の「南極点」に到達することは、今で言う月や火星への探検&探索に匹敵するかもしれません。

 

この「人類で初めて南極点に到達するのは誰か」という競争に、イギリス人:ロバート・スコットと、ノルウエー人:ロアール・アムンセンが挑戦しました。

 

ロバート・スコットとロアール・アムンセン

 

 

スコット隊の悲劇

 

 

ことの経緯は少し割愛しますが、スコット隊が南極に上陸したのは、1911年10月、越冬を終えたスコット隊は、エヴァンス岬から南極点に向け出発をします。
内燃機関を利用した雪上車2台による先発隊が10月24日に出発し、ロバート・スコットが率いる馬ぞりの本隊が11月1日に出発しました。

 

南極点まで約1500km。
これは、かなり長い距離ですね。
東京から沖縄:那覇までで約1500kmになるでしょうか。
その距離を「雪上車」「馬」で行こうとしたわけです。
極寒の地で。

 

スコット隊の行程は困難を極めました。
まず、雪上車が1週間ほどで故障。
また、極寒の地に馬が適しているわけでなく、(馬の食料も携帯しなくてはならない)次々に失い、12月のはじめには最後の一頭も射殺しなくてはならなくなりました。

 

あとは人力でソリを引かなくてはなりません。
また、スコット隊の「防寒具」も体力を消耗するものでした。
これは、後ほど説明します。

 

最終的に南極点を目指したのは、
ロバート・スコット、ヘンリー・バウアーズ、ローレンス・オーツ大尉、エドガー・エヴァンス、エドワード・ウィルソンの5人でした。
そして、1912年1月17日に、スコット隊は南極点に到達しました。
しかしながらノルウエー;アムンセン隊は約1ヶ月前にすでに到達していました!!

 

悲劇はこの後にやってきます。
失意のうちに帰途につきますが、すでに体力の消耗と食糧の不足、悪天候が重なり、彼らは1912年3月29日までに全員が死亡します。

 

 

 

馬でなく犬ゾリを多用したアムンセン隊

 

 

アムンセン隊は、1911年1月14日に南極に上陸します。
準備を十分にして、1911年10月20日に南極点に向けて出発します。
その距離は、スコット隊より100kmほど短いものの、未知の土地を進まなくてはならない危険なものでした。
アムンセン隊は4人の選抜隊とともに、4台の犬ゾリを1台あたり13頭、計52頭に引かせて南極横断を開始します。

 

彼らは途中、好天にも恵まれてアムンセン隊は順調に距離を伸ばし、1911年12月14日、人類初の南極点到達を果たしました!

 

当初はスコット隊が有利、と言われていたのですが、何故アムンセン隊が先に到達したのでしょうか?
もしかしたら、「トップの判断」「状況分析」などビジネスの経営判断にも通じるものがあるかもしれません。

 

 

アムンセン隊と犬ゾリ

 

 

運命の分かれ目;状況判断

 

 

失敗と成功の分析は多くが語られていますが、代表的なものを見ていきましょう。

1)アムンセン隊は犬ゾリを活用。
一方、スコット隊は馬を利用しましたが、南極の温度は馬の耐寒温度を遥かに超えていました。

 

2)したがって馬を失えば、馬が引いていた荷物を人力で運ばなければならず体力を消耗しました。

 

3)アムンセン隊は携帯食料を少なくし、海獣を狩り、いざという時は犬ゾリの犬も食料にしました。
一方、スコット隊は食料全てを持ち込んだため、前述の馬を失えば運ぶ手段は人力だけなので、馬を失えば最低限の食料しか携帯できませんでした。

 

4)アムンセン隊は「南極点到達」のみに集中しました。
一方、スコット隊は「学術調査&地質調査」を行いながらでしたので、戦力分散になりました。

 

5)アムンセン隊は、当時としては防水性の高いアザラシの毛皮を利用したものでした。
一方、スコット隊は牛革を重ねた防寒具で寒さには強かったですが耐水性に劣るものでした。
興味深いことに、両隊とも「バーバリー」のコートを組み合わせていました。

 

6)アムンセンは「冒険家」であったので、もし「危険」と判断したら、また別の機会に、と引き帰る勇気を持っていました。
一方、スコットは元軍人であり、「大英帝国」の威信を背負っていました。
ノルウエーに負けるわけにはいかない、という重圧が判断を誤らせたのかもしれません。

 

7)アムンセン隊はテントも工夫し、5人が十分休めるようにカスタマイズしたテントでした。
一方、スコット隊は4人用のテントのままで5人が休まらなければならず、十分な休息が取れなかったと推測されます。
皆、大男ですからね。
睡眠が取れなければ体力を余計に消耗します。

 

 

アムンセン隊

 

 

リーダーシップとは?

 

 

先に述べたとおり、スコットは元海軍軍人であり、リーダーシップは軍隊式であったのでしょう。
つまり「命令」で事を進めたので、隊員の士気にかなり影響したと推測されます。
隊員が提案してもプライド高いスコットは「これは命令だ!」と言ったのでは、と想像できます。

 

一方、アムンセンは積極的に隊員の提案に耳を傾け、装備品の改良を行うなどし、隊員に参画意識を持たせ、チームワークを重視しました。
また、南極点を目指す前には、アムンセンは北西航路の探検時に越冬した際、地元のイヌイットから犬ゾリの使い方や、毛皮を使った防寒着の作り方など、寒冷地での生存術を学んでいました。

 

そして、隊員はクロスカントリーが盛んなノルウェー出身だったため、スキーによる長時間の滑走にも慣れていました。
しかし、スコット隊はそのような技術や知識を持つ人間がいなかったことも要因と思われます。

 

いかがでしたでしょうか?
リーダーはいろんなことに気を配りますが、それを実行するスキルも用意しなくてはなりません。

 

我々は、歴史上の先人達から多くの事を学べますね。

 

 

本日はここまで。

またお会いしましょう!!