アメリア・イアハート〜南の海に消えた伝説の女性飛行士

皆さん、こんにちは。
木下馨です。
みなさんは、アメリア・イアハートを知っていますか?

 

 

前回、『ライカでグッドバイ』の沢田教一を取り上げましたが、
その著者:青木冨貴子さんのもう一つの著書が『アメリアを探せ』です。
これも私を「興味ある歴史」に導いた作品になりました。

 

青木冨貴子著『アメリアを探せ』

 

この本が出版されたのは1983年ですから私はまだ20代半ばでしたね。
気持ちは今でも当時と変わっていないのですが(笑)。

 

 

アメリアは、当時も珍しい女性飛行士です。
彼女が有名になったのは、1932年5月20日、女性初の大西洋単独横断飛行を成し遂げたからでした。
1927年、大西洋を初めて単独横断飛行をしたチャールズ・リンドバーグの快挙に続いたこともあり、
「ミス・リンディ」との愛称もありました。

 

飛行機の整備をしているアメリア

 

 

もっとも、リンドバーグと同じくパリに着く予定でしたが、天候や機械のトラブルで、アイルランドに着陸となりました。
その人柄は、チャーミングで知的、また、女性の地位向上のために熱心な活動を行い、アメリカ国民にも人気がありました。
大西洋単独横断飛行という偉業のほか、女性では初のアメリカ大陸単独横断無着陸飛行も成し遂げました。

 

 

そして1937年5月、「赤道上世界一周飛行」を計画し旅立ちます。
この当時はヨーロッパでもナチス・ドイツが台頭し、また、アジアでも支那事変が起きた年で世界全体が戦争へ向かっている時期でもありました。
この時代、航空機の発達で世界は確実に「近く」なってました。

 

 

同じ年の5月に、英国のジョージ6世の戴冠式の奉祝の名のもとに、日本でも朝日新聞が「亜欧連絡飛行」として、東京〜ロンドン間を「100時間以内」で飛行するという計画を立てました。
当時は日本とヨーロッパの定期飛行はもちろんなく、多くは船での移動に頼っていました。

 

 

したがって、「100時間」以内は極めて画期的なことでした。
結果、「神風号」は約94時間で世界初の東京〜ロンドン間を飛行したのでした。
現在、東京〜ロンドン間は約12時間で飛行します。

 

 

朝日新聞社の神風号


この「神風号」の快挙はまた、別の機会で取り上げたいと思います。

 

 

話をアメリアに戻しましょう。
アメリアの「赤道上世界一周飛行」は途中、7月2日に、日本の委任統治領南洋諸島に隣接したアメリカ領の無人島であるハウランド島を目指して離陸したが、目的地に着陸することありませんでした。

※ 日本の委任統治領で、現在のミクロネシア、マーシャル諸島パラオや北マリアナ諸島などです。第一次大戦の結果、ドイツ領であったのを国際連盟より委任されました

 

 

ここから『アメリアを探せ』では、
ルーズベルト大統領の密命により太平洋の日本軍の状況を確認するスパイ飛行説、日本軍の捕虜になりサイパンへ連行され処刑された説、などの当時の目撃者や研究者の話が掲載されています。

 

 

当時、アメリカは空母レキシントン、戦艦コロラドを初め400万ドル(当時)の大金をかけて捜索してますし、日本もサイパンにいた特務艦「膠州」等が捜査に協力しました。
しかしながら、何も見つからなかったので両国とも捜査を打ち切っています。

 

 

80年以上経った今でも、多くの研究者や、ナショナル・ジオグラフィック、ヒストリーチャンネルまでが調査に乗り出し、いろいろな説を唱えています。
あと何年かすれば、新しい発見が出るかもしれません。

 

エレクトラ号(最後のフライトはこの航空機)とアメリア

 

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そんなアメリアですから、過去には、映画にもなっています。
『アメリア 永遠の翼』は、ヒラリースワンクが演じています。

 

映画『アメリア 永遠の翼』:夫のジョージ・パットナムとの関係や、パイロットとの恋人関係など、彼女の偉業以外のエピソードも描かれています。

 

この作品は、Amazon Primeで見ることが可能です。

 

 

もう一作品は、
『ラストフライト/アメリアの挑戦』として、かつてWOWOWで放送され、視聴したのを覚えていますが、残念ながらDVD等の発売はないようです。
こちらは、ダイアン・キートンが演じています。

 

wowow『ラストフライト:アメリアの挑戦』

 


かつて、私もスミソニアン博物館で、彼女の愛機「真っ赤なロッキード ベガ」機を見たことがあります。

 

アメリア・イアハートのロッキード・ベガ

 


彼女の人生や挑戦を知ると、「もっと知りたい」「不明の原因はなんだろう」という思いが湧いてきます。
多くの研究者や冒険家も多分、彼女への畏敬の念から真実探究に熱心なのでしょう。

 

 

本日は、ここまで。
ありがとうございました!

 

番外編:映画『ナイトミュージアム2』にもアメリア・イアハートが出演。勇ましく、キュートで自由奔放なキャラクターとして描かれています。

二人の「歴史の証人」〜木下が尊敬する写真家:ロバート・キャパと沢田教一 (後編)

皆さんこんにちは!
木下馨です。

今回は後半の沢田教一を取り上げたいと思います。

 

前編はこちらから。

二人の「歴史の証人」〜木下が尊敬する写真家:ロバート・キャパと沢田教一 (前編)

 

大学を卒業して新社会人時代、
青木冨貴子さん著『ライカでグッドバイ:沢田教一が撃たれた日』を読んで、まだ「ピュリッツアー賞」とは何かわからない若輩者でしたが、同じ日本人で「すごい人がいるんだ」と思ったのを覚えています。

 

ライカでグッドバイ:沢田教一が撃たれた日

 

また、「ライカ」というカメラにすごく興味を引かれました。
「カメラは日本のニコンかキャノンだろ」
と当時は思っていましたが、ライカを調べたらめちゃくちゃ高い(笑)カメラだ!と思ったものです。

80年代はGoogleはもちろん、ネットはありません。
この本も月刊紙からのトピックで紹介され、興味を持って購入したと記憶しています。
(確か月刊プレイボーイかと。プレイボーイも、週刊と月刊がありました。時代ですね)

 

沢田教一は「日本のキャパ」と言われました。

 

青森出身の寡黙な青年が、まさに「三段跳び」で報道カメラマンになれたのは、ベトナム戦争が全面戦争になる時期に合わせて自費でベトナムに渡り、UPI通信社サイゴン支局でカメラマンとして働けたことが大きく影響しているでしょう。

そして1965年9月に、翌年のピュリッツアー賞を受賞(写真部門)する「安全への逃避」を撮影します。

 

「安全への逃避」
この作品は、女性と子どもが村から逃げていく瞬間を撮影している。村は、南ベトナム開放民族戦線が基地にしていたため、米軍の爆撃を受けている。村が基地であることから、この攻撃の手が緩むことがないことを知っていたのだろう。

 

 

ちなみに、日本人でピュリッツアー賞(写真部門)を受賞した人は3人います。
「安全への逃避」の沢田教一と同じく、ベトナム戦争で写真集『より良きころの夢』を出版した酒井淑夫。

 

酒井淑夫「より良き頃の夢」120枚の写真集が受賞。
酒井は、長い戦場取材経験から、大雨が静けさをもたらし、静寂なる写真を撮影できることを知っていた。多くの戦場写真とは好対照をなす、非道極まりない中の、ひとときの静けさ。日本人で3人目の受賞者となった。

 

 

あと一人は「浅沼社会党委員長の暗殺」の長尾靖。

 

長尾靖「浅沼社会党委員長の暗殺」
日本人初のピュリッツアー賞を受賞した作品。
1960年10月12日、日比谷公会堂で日米安全保障条約をめぐる、各党党首による演説会が行われた。社会党書記長の浅沼稲次郎が登壇すると、野次が飛び、演壇に上がってビラを巻く人もいた。そんななか、1人の学生服を着た青年が舞台袖から浅沼めがけて走り寄り、短刀を腹部に突き入れた。その後、心の臓を突く。浅沼は救急搬送中に死亡。襲撃者は拘留中に自死。動機は不明のままとなった。この会場には、他にも多くの報道カメラマンがいたが、格好のポジションを取った長尾だけが、この事件の瞬間を捉えた。

 

 

沢田がベトナムに滞在したのは、1965年2月~1968年8月。
ベトナム戦争が一番激しかった時期と重なっています。
私が小学生で、立川上空を飛ぶ米軍機を見ていた時期です。

ロバート・キャパもそうでしたが、報道カメラマンにとって戦場とは麻薬のようなもので、一度経験すると身を焦がす衝動によって舞い戻る他はない場所のようです。

 

テト攻勢(1968年)後、フエに赴き攻防戦の写真も多く撮っています。
ちなみに、フエでの攻防を描いた映画が、
キューブリック監督の『フルメタルジャケット』です。
映画の後半部分の戦闘シーンをご覧になった方もいらっしゃるでしょう。

 

「“決定的瞬間”を撮るためには、自分を決定的場面に置かないと撮れない」
というのは、キャパも沢田も同じ心境だったのでしょう。

 

そして、「新たな危険」を求め、1970年にサイゴンに戻りカンボジアを取材中、ゲリラによって襲撃され命を落とします。
享年34才でした。

 

米軍兵士にカメラを向ける沢田教一
戦争の最前線に入り込み、進行する米軍兵士の前にわざわざ躍り出て撮影している。沢田は最期、戦地に取材にいく途中で襲撃される。危険な夕方の時間帯、自衛する防具を一切身につけていなかったという、通常ならあり得ない状況だった。所持していたカメラ道具一式は、すべて持ち去られていた。そこには、どのような瞬間がおさめられていたのだろうか。

 

 

キャパと沢田が使っていたカメラ

 

最後にキャパも沢田もよく使用していたカメラについてお話ししましょう。
キャパはノルマンディー上陸作品時、コンタックスを使用したと言われています。
上陸後はコンタックス2台、ローライ1台を使用していたようです。

沢田は本の題名にもなっているライカを愛用してました。
この本にも本人談として、
「日本のカメラは写りが悪い」
「日本のカメラを使うと壊れちゃうんだよ」
といって、日本製のカメラを使いたがらなかったという話があります。

 

彼は1967年だけで、ライカのボディ6台(M3を3台、M2を2台、M4を1台)所有していたそうです。
ニコンFも使用しましたが、望遠レンズのみは使用したとのこと。

 

歴史の瞬間を映した二人の偉人はその道具にもこだわった、ということでしょうか。
彼らに限らず名人にはその手に馴染んだ「名機」があるものです。

また、「その時代」が彼らを世に出しスポットを浴びせ、時代が彼らを遠い世界に連れて行ったかもしれません。

本日はここまで。
最後までお付き合いいただきありがとうございます。

また、お会いしましょう!!