インディ500マイルレースで佐藤琢磨選手が優勝して思うこと〜ホンダの軌跡〜

皆さんこんにちは!
木下馨です。
まだまだ暑い日が続き、地域によっては台風など今後も心配な時期が続きますね。
災害に見舞われた地域の皆さまの復興を、心より祈念しております。
そして、そのほかの地域の皆さまも、できうる限りの備えや防災をご準備されますように。

 


今回は、話題をモータースポーツにしたいと思います。
世界三大レースであるインディ500マイルレース(あとの2つは、「F1」と「ルマン24時間レース」)で、日本人レーサーの佐藤琢磨氏が、8月23日に行われた決勝で見事優勝しました!
彼は、2017年に続いての快挙となり、日本でも多くの報道機関が伝えました。

 

優勝して牛乳を飲む佐藤琢磨選手。インディ500の勝者は伝統的にミルクで祝杯を上げます。

 


日本のマスコミは「日本人が優勝」した、という時には大きく報道しますが、もっと素晴らしい「快挙」であることを伝え切れていないので、お伝えしたいと思います。

 


彼が乗ったマシンは「ダラーラ・ホンダ」というマシンです。
ダラーラは、イタリアに本拠地を置くコンストラクターです。
※ 設計&組み立てを主に行う企業のこと。エンジンとシャシーを全て提供しているのはメーカーと呼ばれます。代表的なメーカーはフェラーリでしょうか。

 


エンジンはホンダが提供しているわけですが、なんと、2005年からの15年間で12回もインディ500を制しています。

 


つまり、ホンダエンジンは、その優秀性を世界で遺憾無く発揮しているわけです。
欧米では「モータースポーツ」が定着していますので、ホンダエンジンの優秀性は、ホンダが大切にしている市場の大きいアメリカにおけるvisibilityアップに、確実に繋がっていると思います。

 


一部のレースファンならご存知かと思いますが、この快挙やホンダの世界的な立ち位置は、一般の人たちにはあまり報じられていないのではないでしょうか。

 


そんな「ホンダ」ですが、ホンダとレースとの間には、歴史の厚さとホンダの決意が存在していると言えます。
創業者;本田宗一郎氏は、町工場の頃から「世界」を目指していたと言われています。
つまり最初から目標がはっきりしていたわけです。
ホンダは世界を目指していたからこそ、現在も世界から認められる自動車会社になっているのではないでしょうか?

 


ちなみに「日産」はどうであったか。
私が思うに、彼らは世界ではなく、「トヨタ」をみていたのではないでしょうか?
この「目線の高さの違い」が、今の日産の現状だと思いますが、いかがでしょう。

 


さて、ホンダに話を戻すと、
「世界」に打って出るホンダは、まずは二輪で、もっとも過酷と言われた「マン島TTレース」に1959年から参戦しています。
※ 「マン島TTレース」では過酷さを立証するかのように、現在まで、239名のドライバーが亡くなっています。

 


そして、F1の世界にも飛び込んでいきます。
1961年からエンジン開発を始め、当初はロータスがエンジンを載せるはずが最終的には断られ、やむなくシャシーも自前で作る「メーカー」として参戦します。

 


そして1965年の第10戦のメキシコグランプリで、“リッチー”・ギンサーがドライブする1500CCエンジンのRA272が初優勝します。

 

リッチー・ギンサー選手

 

実車でのリッチー・ギンサーとリッチー・ギンサ選手

 


これは歴史的な快挙と言って良いと思います。

 


まだ、敗戦から20年しか経っていない東洋の島国の弱小自動車メーカーが、なんと、20世紀初めより行われている由緒ある自動車レースでその名を刻むことになりました。

 


幼心に、木下がモータースポーツに興味を持ったのは、この優勝した車体を正確にプラモデルにした「タミヤ模型」のおかげかもしれません。
当時、プラモデル少年でありましたので、頻繁に多くの悪童たちと”模型屋”に入り浸っていました(限られた小遣いの中でのやりくりでした。なので、買えなくても見に行っていました。お店は嫌だったでしょう(ニッコリ))。

 

子どもの頃、欲しいと思ったが買えなかったタミヤ模型のホンダF1(リッチー・ギンサーモデル)1/18 RA272

 


そこで大人たちが、子どもには高嶺の花の金額の、このF1模型を購入していたのを何度も見たものです。

 


そこから自動車レースにも興味を持ちますが、もちろん当時は、衛星中継があるわけではなく、またネット配信なんかはSFの世界ですから、かなり時間差があっての情報確認でした。

 


その後、1967年のイタリアグランプリで、ジョン・サーティスが優勝しこの年のコンストラクターズランキングでも、年間4位につけ第1期の最高成績となりました。

 

イタリアGPでチェッカーフラッグを受けるホンダマシーンのジョン・サーティス(左)2位のジャック・ブラバムに0.2秒差の優勝でした(右)

 


その後ホンダは一度、F1から撤退します。
しかし、1980年代のウイリアムズ・ホンダとしての活躍、アイルトン・セナの人気など、現在に至るまで紆余曲折はありましたが、モータースポーツ界でホンダは日本より世界で、その名を轟かせているのではないでしょうか。

 

 

その間、トヨタはルマンレースに力を入れています。

 


モータースポーツは、特に欧米では「文化」と言って良いでしょう。
現在も含め今後、自動車業界は大きな変革の時期に来ているのでしょう。

 


近い将来、レースにおいても水素エンジンや電気自動車で、その技術が競われるかもしれません。
その時に、日本の自動車会社は生き残ることができるか。

 


ぜひ、技術の向上に努め、世界をまた、あっと言わせて欲しいものですね。
本日はここまで。
ありがとうございました!

マッシー・村上〜アジア初のメジャーリーガーになった男

皆さんこんにちは。
木下馨です。

 

今回のKinopediaは村上雅則投手(法政二高)を取り上げます。
ここ数回、「野球」の話題ですので、このお話も続けていきたいと思います。

 

【ここ数回の野球話題はこちら】
皆さんは志摩定一選手と東門明選手を知っていますか?

夏の全国高等学校野球選手権大会;独断と偏見で選ぶ左腕投手ベスト3 (昭和版)

夏の全国高等学校野球選手権大会;独断と偏見で選ぶ左腕投手ベスト3 (平成版)

 

ここのKeyは「9月1日」という日になります。
9月1日は「防災の日」(1923年9月1日に起きた関東大震災を忘れないように)に制定された日ですが、皆さんも「その日だな」と思う方々が多いのではないでしょうか。
しかし、歴史上はいろんなことがこの日に起きています。
その話題は多くの紙面をとりますので、今回は割愛しますが、1つ挙げるとすれば第二次世界大戦:ドイツ軍がポーランドに侵攻した日がこの「9月1日」になります。

 

そして、今回取り上げる話題も「9月1日」が1つの歴史的な日になります。

 

野茂英雄投手(府立成城高校)がアメリカ大リーグ(以下MLB)にデビューしたのは、1995年5月2日です。
前年の日本プロ野球(以下NLB)近鉄バッファローズで1億4千万円の年棒から、ロサンゼルス・ドジャースでマイナー契約の約980万円なってでも、彼はMLBにこだわりました。

 

NLBで78勝、MLBで123勝あげた野茂投手の話はまた別の機会にしたいと思いますが、彼が活躍する30年前にMLBで活躍した日本人投手・村上雅則投手の話をさせていただきます。

 

村上雅則投手の投球フォーム

 

村上雅則投手は、後に読売ジャイアンツで不動の1番打者:柴田勲選手の1年後輩にあたり、控え投手として高校2年生の春に甲子園での選抜高校野球大会に出場しています。
今では全く考えられませんが、ドラフト制度がなく自由競争の時代でしたので、当時の南海ホークス:鶴岡一人監督から「アメリカに野球留学させてやるからうちに来ないか」とスカウトされ、高校在学中に契約します。

 

当時の南海ホークスも、契約を結ぶためにそんな話をしたのだと思います。
(当時は1ドル=360円の時代です。例えばスタバで約2$のコーヒーだと、当時は約720円のコーヒーになりますね。アメリカはまさに夢の国であったと思います)

 

村上投手は、南海に入団し3年目の1964年、MLBサンフランシスコ・ジャイアンツ(以下ジャイアンツ)傘下の1Aフレズノに野球留学で派遣されました。

 

そして運命の日がやってきます。

 

1964年9月1日、東京オリンピック開催まであと1ヶ月と日本中が盛り上がりを見せているとき、ニューヨーク・メッツ戦で

 

「ナウ・ピッチング! ナンバー・テン・マサノリ・ムラカミ」

 

と場内アナウンスでコールされ、8回の裏、メッツの本拠地シェアスタジアムのマウンドに向かい「メジャーリーグデビュー」を果たしました。

 

「マサノリ」の発音が難しいため「マッシー」との愛称がつけられました。
これは「日本人初」のMLB登板というより「アジア人初」のデビューとなりました。

 

日本人初のメジャーリーガー;村上雅則投手

 

この年、後のヒューストン・アストロズとなるコルト45’sで「アジア人初」の勝利を掴みます。
この年、1勝1セーブでシーズンを終えます。
彼は1944年生まれですから、20歳の若者が歴史に名を刻むことになりました。

 

翌1965年は、引き続きプレーを希望するジャイアンツと、復帰を希望する南海との間で揉めにもめます。
詳しい話は省きますが、なんとか1965年はジャイアンツでのプレーができるようになります。

 

当時のジャイアンツの主砲はウイリー・メイズで、この年も、2年連続4度目の本塁打王になりました。
しかし、同地区のライバル;ロサンゼルス・ドジャースの強力な投手陣、サンディ・コーファックス(26勝)、ドン・ドライスデール(23勝)の牙城を崩すことができず、結果は首位(ドジャース)に2ゲーム差の2位でシーズンを終わります。

 

その中でマッシー・村上は、今でいう中継ぎで重用され、45試合登板、4勝1敗8セーブを記録しています。
また、「アジア人初」のMLBでのヒットも記録しています。
この相手がなんと、「火の玉コーファックス」の異名をとる前述のサンディ・コーファックス投手からでした。

 

ちなみに、コーファックス投手は左腕投手で、4年連続で無安打無得点試合を達成。
この年43試合登板し、26勝8敗、防御率2.04、382三振の成績を残し、サイ・ヤング賞を獲得していますが、この大投手からのヒットでした!

 

ドジャースのサンディ・コーファックス投手

 

村上投手がMLBで活躍したのは、この2年間でした。
現在と違い、選手の権利が今より強くなく、発言の機会も球団側が強かった時代でした。
また、「アメリカに行くなんて」という怨嗟の気持ちも多少はあったと思います。
二十歳の若者が、アメリカから帰国し、羽田空港で記者の質問に英語で答え、「日本語を忘れたのか」と記者に一喝された時代です。

 

彼は日本に復帰し、NLBで103勝・30セーブをあげていますが、そのままMLBにいても近い数字は残せたのではないでしょうか。

 

村上投手も投げたサンフランシスコ・ジャイアンツのホームグラウンド(当時)
キャンドルスティック・パーク

 

イチロー選手(愛工大名電高校)や、松井秀喜選手(星稜高校)よりもずっと前に、前述のように、日本人選手の初安打を記録しているのも村上雅則選手です。
それだけでなく、イチロー選手や松井選手、そして大谷翔平選手(花巻東高校)など今は多くの選手が海を渡っていますが、1960年代に、たった一人で活躍していた日本人選手がいたことを誇りに思いますがいかがでしょうか。

 

野茂投手がドジャースで活躍し、多くの日本人記者、解説者がMLBを観戦しにきました。
その時、MLB関係者から異口同音の質問が
「マッシー村上は元気か?」
であったと多くの方々がお話していたということを聞きました。

 

30年間の空白はなんであったのかとは思いますが、野茂投手の前にMLBで活躍した「先駆者」村上雅則投手を忘れてならないと思い、今回のテーマとしました。

 

彼は紛れもなく、「初めてMLBでプレーした日本人」でした。

 

本日はここまで。
ありがとうございました!